機械による自然——KulfiQ『レイニーレイ』
雨が好きだ。
正確に言えば、
深夜、家の中にいて、窓の外から聞こえる、終始同じ強さで降り続ける、雨の音が好きだ。
そこには強い安心感があるから。
確かな音が緩和する、深夜起きていることへの微かな罪悪感。
止まる気配のない水の流れがもたらす、ある種の生。それはちょうど、血液みたいだ。
正確に打ち続ける機械の音も、たまに、そんな逆説的な「機械がゆえの生」を与えてくれる。
*
KulfiQ『レイニーレイ』。
梅雨入りすると聴いてしまう曲。
歳時記なんか知ったこっちゃない現代人の、滑稽な季節感。なのは分かっていても、季節というのは毎度巡ってきて都合が良いし、少しばかりずるい。
「フリーソフト縛りで曲を作ろう」という企画で作られたその楽曲は、ピコピコいう電子音と極めて正確なドラムのリズムが曲調を支配する。
イントロ、「ミーレミファー」とフレーズの途中途中で伸ばす音が全く減衰せずただ真っ直ぐ空間を貫く様を感じていると、タタタタタタタタと至極均等に刻む機械のドラムに打たれ(感覚的には「撃たれ」)る。
恐れを知らず、ひたすら前へ進む機械の音。それに被さるミクの声は、低く落ち着いたいつものKulfiQさんの使うミク。
そんな、なんだか一見前向きっぽい歌詞が、怯まずぽんぽん出てくるメロディの拍頭に合わせて素直に紡がれる。
だけどよく聞くと、
あれ、
飛び出したけど、その場を行ったり来たりしていて、何か変えられてはいないようだ。
それはちょっぴり、「夜に考え事するのは良くない」とか、そんなこと分かってても、ただの堂々巡りでも、終わらせたくない、眠りたくない真夜中の思考のよう。
「夜は明ける」「止まない雨はない」
だけど、雨の降り続ける夜が、何よりずっと優しくて、ずっと生きていて、救ってくれることがあることを、私は知っている。
——それが結局、何の解決を見ないものだとしても。
そして、最後のサビ前。
この歌詞だけ見たら、ちょっと目を背けたくなってしまうほどやたら前向きな言葉で、
人に元気に応援されるように歌われても困るし、
感情込めて涙を拭きながら歌われても困る。
熱くならなくても、
声を震わせなくても、
ミクの声は最初から何も変わらず、淡々と、ぽつりぽつりと、私に滴る。
それだけで、水はいつしか溜まって、音域もいつしか上がっているし、転調するだけのエネルギーも持っている。
この「消えてなくなってしまったら」。
あんなに低く落ち着いて始まったことを忘れそうなくらい曲中で一番高く、
今まで雨粒のように一言ずつぽつり語ってきて、ここは一息が長く細かい。
知っていた、だけど怖くて言えなかったことばを思い切って絞り出すみたいに。
その絞り出した息の細さがもたらす少しの苦しさも補強して、雨が止むことはここで、僕が消えることと結びつく。
なんとなくのイメージなら、晴れがポジティブで、雨はネガティブだ。
けれど、「枯れた花瓶の花」にはじまって、乾いた対象と対比するような印象もあるこの曲。
降り続く雨は、時に生だ。
*
梅雨が明けた。
まだあと数週間、雨に宥めてもらいながらダラダラと書こうと思っていたのに、2022年の梅雨は、とっとと明けてしまった。
…と思ったら7月も半ば、梅雨みたいな天気になった。
6月のくせに真夏みたいな顔をしてた、あの明らかに生命を脅かしそうな日差しからは目を背けたいけれど。
淡く、穏やかに降り注ぐ光を受け入れて、雨を見よう。
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