『ゴジラ-1.0』感想(ネタバレあり)

山崎貴監督が手掛けるゴジラの新作『ゴジラ-1.0』を観てきました。
事前には正直不安の方が強く…と言ってもドラクエとかじゃなく、寄生獣で化学汚染された例のアレを放射性廃棄物?に置き換えたやらかしのイメージが強くて。
ゴジラはどうしても科学的な嘘を上手に描かないと萎えるからそちらが心配でした。
 
田舎育ちだから昭和中期の東京に特別な感慨もなく、したがって三丁目の夕陽的ノスタルジアも求めてないので、ゴジラをどう表現するのかしら?というところに鑑賞前の関心は向いておりました。

キャストとかほとんど知らなかったしね!

さて。
神木隆之介演じる主人公の敷島は特攻を断念…断念じゃなく特攻から逃げてきたところ、逃げた先で原生生物のゴジラと出くわします。
ビジュアルは完璧、人間を食うでなく噛みついて放り投げるゴジラは『ジュラシックパーク』のティラノサウルスのような怖さがありました。
どうにもならんだろ…と
どげんかせんといかんだろ…が合い混ぜになる感じ。

敷島は戦闘機で攻撃するように整備兵の橘に依頼されつつも恐怖から果たせず、二度目の「逃走」をすることに。
冒頭からいきなり主人公に襲いかかる理不尽の恐怖。
いや逃げても仕方ないよ。
でも逃げたことを責められるけどね!

復員しても近所のおばさんに「お前が死ななかったから家族が死んだ(意訳)」と怨嗟をぶつけられる始末。
戦って(逃げたけど)死の淵を観てきた人間に過酷すぎる話。
復員兵の哀愁は『ランボー』にも通じるものを少し感じたりしました。

この後、子供を連れた孤児の典子や、仕事仲間たちとの邂逅を経て、敷島が少しずつ人間性を取り戻していく姿と、復興していく日本がシンクロして物語が進みますが、そこに影を落とすゴジラ…

ゴジラは「戦後の日本を襲った災厄」として描かれてきましたが、敷島にとってのゴジラは拭い去れない戦争そのもの。

その辺りはこれまでのゴジラにない新機軸と言えます。
ゴジラそのものは、敷島が大戸島でみた原生生物から、核実験で生存を脅かされ、かつ巨大な異形へと変容します。
いわゆる破壊神的な神格をもった怪獣を思わせつつ、やっていることは「ナワバリを巡回する」「ナワバリ内の害獣(すなわち人間)を追い払う」みたいなことで、生物的な動きしかしてはいないように見えました。その点でエメリッヒ監督版のゴジラを想起した人もいたかも(マグロは食べないけどね)。

銀座を蹂躙するゴジラ…と言うか、ゴジラが歩くその足の下に逃げ遅れた人がいたり、ゴジラが破壊したビルの破片がまだ走っている人々の上に降ってきたり、ゴジラのその所為の中で命が奪われる様が描写されているのが実に怖かった。
この怖さは『シン・ゴジラ』の熱線でヘリが落とされたり、ヤシオリ作戦でポンプ車がなぎ倒されたり、あんな場面に合い通じるものが。

そういう描写を差し挟まなかった『シン・ウルトラマン』と比べると、ゴジラの指向性が垣間見える気がしますね。


さて。
物資も芹沢博士もオキシジェン・デストロイヤーもない作中世界でどうゴジラを倒すのか。
冒頭で述べた科学的な嘘をいかに見せるかというところですが
①フロンガスでゴジラを包み急速潜行させ、深海の水圧で圧死させる
②水圧に耐えたら、浮き袋を展開して海面に急浮上させ、圧力差で殺す
の二段構え。
なるほどー、と。まあ、実現可能性とかでのリアリティーはともかく、うまい落とし所だなぁと感じました。
と同時に、物語がこのあたりまで進んでくると、その辺は割とどうでも良いほど作中の人物の心情に思いを寄せている自分がいました。

ゴジラに尊厳を奪われ、銀座上陸時の破壊で愛を育んできた人を奪われ、敷島にはもうゴジラを倒すことでしか生きる道がない。
上記作戦でも倒しきれる保証はない以上、敷島が取れる手段は一度は逃げた「特攻」のみ…

戦争の際は、そこから逃げたことを攻められた。
でも、今は敷島がそれを選ぶことを仲間たち、関わる人たちが良しとしない。

「先の戦争で、日本は命を粗末にしすぎた」
「兵站の軽視による餓死や病死」
「さらには特攻、玉砕を煽った」

という台詞が出てくるに至って、兵器を使うし戦いは描くけど、根底には反戦への願いが込められているな、と感じました。

そして対ゴジラ決戦、わだつみ作戦が実行されるわけですが、圧倒的な力を持つゴジラに立ち向かうのが秘密裏に譲渡された駆逐艦響と雪風!
いやごめんなさい。心中で艦これ的に盛り上がってしまいました。
頼むぞ響!雪風!高雄の敵を取ってくれー!
みたいな。

あと敷島がゴジラが特攻するために用意された戦闘機の震電。
整備を敷島に恨みを持つ整備兵の橘に依頼するわけですが、橘が脱出装置を着けているのがまた良いのですよ。
ご都合主義ではありますが、橘だって特攻…すなわち命を捨てさせることを戦争では余儀なくされていて、仲間を見殺しにした敷島であっても、もしかしたら自分が命を捨てさせるはずだったかもしれない…という思いがあったのではないかと。
もし今また命を捨てようという人間が戦闘機に乗るなら、今度は助けたい…と橘が思っていたとしてもおかしくはないと思うんですよね。

敷島も
橘も
戦争に行けなかった小僧こと水島も
あるいは本作に出てくる人物誰も

悔恨を残した先の戦争にキリをつけなければならない理由があったと言えるのではないでしょうか。

だからこそ、絶対にゴジラに負けるわけにはいかなかった。


ところで、敷島の特攻シーンは、劇場アニメとして作られたゴジラ三部作のラストシーンと重なる感じがしました。
やってることは。
『星を食う者』のラストでハルオは人類の業全てを背負ってゴジラに特攻しますが(つまり死ぬつもりで)、本作では脱出、つまり生きて帰るつもりだったのが大きく違うところですね。

僕が本作のゴジラに神性を 見出だせないのも、地球の守護神の役割を持たされたアニゴジ三部作との差異を感じるからかと。

改めて振り返って、『ゴジラ-1.0』は、月並みですが良い物語でした。
史実を下敷きにした、現実に立脚した物語なら、本作のように「生きようよ」というポジティブな祈りが込められた方が共感できるかな、と感じました。実際、共感を持ってゴジラを観たのは久しぶりでした。
『GMK 大怪獣総攻撃』以来だったかも。

現実の災厄はゴジラのように目に見えるものではないだけ、さらに厄介ですけども…
より良く生きていきたい、そう思った観賞後の心境でした。



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