人生を振り返る②
おっすおはようございます
前回の続きです。
まだまだ長いのでお茶でもどうぞ。。
かなり心の深い部分までお話して文字起こししていただいていますので一部有料としています。悪意に晒されないための予防線としてご理解いただけましたら幸いですおっす
今回は全8章中3〜4章のお話です。
浪人〜大学時代まで、お楽しみください〜!
③浪人時代
大学受験のために、1年浪人することになった。
現役で立命館の情報理工学部に受かっていたがそこには行かず、京都大学の薬学部(第一志望)または農学部(第二志望)に再チャレンジすることを決めた。センターの点数が悪く浪人生になることが決まった時は、別に落ち込むことも焦ることもなかった。というのも、高校時代の知り合いはほとんど就職したり、俺と同じように浪人したりして「置いて行かれている感」があまりなかったからだ。
予備校に選んだのは、京都駅avanti前の駿台だった。理系に一番強い予備校だったからだ。駿台では、センターの点数と入学時のテストの点数でクラス分けがされるのだが、一番上のクラスになった。そのせいか、入学後初めての模試では、50~60人くらいのクラスの中で下から2番目の順位になって驚いた。高校の実力テストではずっと一番だったのに。予備校ではそれまで聞いたことすらないような単元が教えられていたことにも驚きだった。世界は広い。
その時の俺は、マサイ族くらい拡張したピアスと金髪で、クラスから浮きまくっていた。それでもクラスの中で2人と友達になったし、他のクラスにも友達が結構できた。勉強の方は真面目にやっていて、朝から夕方まで授業、その後も自習室で22時くらいまで勉強する毎日だった。やっている内に内容がどんどんわかるようになっていって、それが嬉しかったから勉強は楽しかった。特に物理と英語に強く、成績はみるみるうちに上がっていき、最初はE判定だったのがB判定まで向上した。夏期講習前の模試の結果も、クラスの真ん中くらいの順位まで行った。やれば成績が上がる、というのが実感できた。夏までは。
夏の間の講習も、予備校に通ってはいた。ただその間は、それまでのように勉強漬けではなく、遊びに傾くことが多かった。予備校にドラゴンボールの漫画を持ってくる人がいて、講習の合間に読ませてもらって帰る、そんな生活だったのも一つの要因だった。さらに夏期講習の間には、俺のことを好きになる子も出てきた。予備校には食堂があり、昼以外も解放されている。漫画を読むために頻繁に行っていたのだが、そこでよく会う子だった。話していくうちに自分のことを好きになってくれたのは嬉しかった。音楽好きが高じて大量に収集していたCDを人に貸すのが好きで、その子にも貸したりしていた。そのままその子とデートに行ったりもした。そうするうちに告白されたが、断った。高3から付き合っている彼女がいたからだ。当時は、女子にモテようとし始めていただけだったのだ。というのも学校の入学・卒業などの節目があって「一つ成長したな」と思っていたのと、同じ予備校にいた二十歳以上の人とも連んだりしていて、俺も大人になったな~という自覚があったからだ。「周りの人の期待に応えたい」と思うタイプで、「大人はパートナーがいるもの」というイメージがあったので、そのイメージに沿うためにモテようとしていた。
しかしそんな奔放な生活を送っていったツケで、成績の方は徐々に落ちていった。秋に入ると実践・応用的な授業が始まり、勉強についていけなくなっていた。勉強のペースがこのままでは受験に間に合わない、と気づいたのは11月だった。B判定だったのが徐々に下がっていき、京大が遠のいていった。
そうして迎えた1月のセンター試験だったが、標準的な点数は取れていた。そして京大ではなかったが、私立の薬学部に受かった。元々、何がなんでも京大に行きたい!という訳ではなく、高3の時にお世話になった現役京大生の家庭教師の勧めで、なんとなくいいな~と思っただけだったから、私立の薬学部に受かった時には「もう薬学部に受かったしオッケー」と喜んで、その大学に行くことにした。それからは遊びに振り切った。その期間は楽しかった思い出があり、青春18切符を使って福岡にいる友達のところまで泊まりに行ったりしていた。その帰路の途中、山口駅で乗り換えがあったのだが、予備校で俺を好きだった子に偶然出会った。山口大学を受験した帰りだったそうだ。運命ってあるんだな~と思ったが、それから特に何かがあったわけではない。
④大学時代
入ったのは、大阪薬科大学(現大阪医科薬科大学)だ。
大阪薬科大学の敷地に足を踏み入れたのは、実は入学式が初めてだ。しかもその日は、遅刻ギリギリに到着した。乗るバスを間違えたのだ。大学までは、最寄り駅からバスで山の上まで登る。そのバスに乗ろうとしたら、同じく駅に発着の真如苑(新興宗教)行きのバスに、そうと気づかず乗ってしまった。新興宗教の建物に着いて、ものすごく勧誘された。あなたに救いを~とか言われたけど「じゃあ今、遅刻しそうなのを救ってくれよ」と思ったりしていた。結局、その建物が大学のすぐ近くにあったので、信者に大学の場所を聞いて走って行ったら、入学式には意外と間に合った。
一般的な大学生のイメージはバイト・遊び。薬学生は違うと思うが、俺はそうだった。バイトは塾講師+トンカツ屋(3日でやめた)+新幹線線路工事+コンビニ、など週3~4でやっていた。部活は軽音部に入っていて、ボーカルをしていた。その時の大阪薬科には、フォークソング部と軽音部という2つの軽音系部活があったが、やっている音楽はほぼ同じでも軽音部の方は掛け持ち禁止の縦社会、フォークソング部はゆるい。という感じだったから、両方から勧誘されていたけど最初はフォークソング部に入った。ただそれが仇となって、結局ぬるすぎて嫌になり、音楽はちゃんとやりたいという思いで半年後には軽音部に転部した。軽音部に入ってすぐくらいの時には彼女もできた。元々高3から付き合っていた彼女がいたが、その時は既にほとんど疎遠になっていて、新しい彼女ができてからメールで一言だけ別れの言葉を送って終わった。新しい彼女のことは、この子面白いな~と思っていて、どちらから告白するともなく気づいたら付き合っていたような状態だった。授業の方はそれなりに…行っていなかった。なんとかギリギリ進級はできる程度だった。本当にギリギリだった。単位を8つ落としたら留年のところ、7つ落としていた。
2年生になって、部活をやめた。面白くなくなってしまったからだ。音楽をきちんとやっていたところはよかったものの、「飲み会は絶対に参加しないといけない」とか「飲み会で先輩を潰さなければいけない」とか、音楽ではない方向にベクトルが向いた変な厳しさだった。しょーもな、と思ってやめた。そして1年の頃にできた新しい彼女は、いわゆるメンヘラだった。連絡つかないと怒るから、バイトも自由にできない。そのくせ自分がバイトしている時には連絡を返してくる訳でもない。外見はサバサバしているけど、常に自己中心的だった。そんな関係に耐えられるわけもなく、電車乗っている時に小声で喧嘩をして、「はいもう終わりでーす」と言って別れた。共通の知り合いを介して「また喋りたい」と聞いたりもしたが断った。付き合ってから1年も経っていなかった。
勉強の方は、全然大丈夫じゃなかった。バイトとパチンコと遊びばかりの日々。何時間連続で遊べるかに挑戦したりしていた。特にガチハマりして週8日の勢いで行っていたパチンコでは、バチくそ負けて100万くらいの借金を作ったりした。色んなところから借りていたが、中には怪しい関係も入っていた。電話越しではあるものの詰められたりして、怖い思いをした。これからは金を借りたらあかん!と決心したくらいだ。じゃあ、パチンコで負けた分はどうするか?と考えた時に出てきた選択肢が、①バイトして返す②逃げる③パチンコで返す(俺は人生の岐路に立った時、自分の前に選択肢を出して、そこから選ぶということをしていた)。俺が選んだのは③だった。その頃はよく、コンビニで売られているようなパチンコの攻略本を買っていたのだが、そこには2種類の情報が載っていて、演出を楽しむタイプと機械の確率が書かれているタイプがあった。読んでいくうちに、前者の信憑性は低く後者は高い、ということに気がついた。そこで、攻略本を読み込んで確率の見方を徹底的に分析し、それを実際の行動に移した。その結果、無事借金を全額返金した。パチンコで作った借金をパチンコで返したのだ。この経験から、あることに気づいた。誰でも手に入るような雑誌に必勝法が載っているのに、9割の人がそれに気づかず負けている。情報はあるのにそれに則って行動できる人が少ない。ということは、世の中の9割の大人もそうなんだ、じゃあ実際に行動を起こすだけで勝ち組になれるんじゃないか。これは大きな学びだった。
ちなみに、2年生は2回留年している。パチンコに勝ち出したのは、3回目の2年生くらいからだった。その後はきちんと成績を取って進級したのかというとそうではなく、大学からの恩情のお陰だ。というのも、ちょうど薬学部が4年制から6年制に変わる移行期間で、2回留年したら6年制の子と同級生になりカリキュラム的に難しいので、大学側も「早く出ていって」オーラを出して厄介払いをしたかったから、だと思う。俺に対する判定甘くなっていた。
2年生の内にやったことで、大事なことが2つある。1つは、自動車運転免許を取ったことだ。夏前に免許取って、友達と2人、1ヶ月の全国弾き語りツアーを計画した。勢い勇んで出発したはいいが、2人で2万円くらいしか持っておらず、九州から四国まで周って2週間で帰ってきた。弾き語りでお金を集める予定だったが、広島でおばあちゃんに1000円もらったのが唯一稼いだお金だった。入る金はないが出る金は多い。なにせガソリン代に一番お金がかかったし、四国に渡る橋を通るのにも結構かかった。夜はコインランドリーに駐車して車内泊をして過ごしていたが、9月前くらいだったため暑くて寝れない。お金がなくなってからは、おにぎりを買って食べたりした。広島まで来て、残金は絶望的。広島で入ったお好み焼き屋では店主と仲良くなり、弾き語りツアーをしていると話したところ気に入られて、奢ってもらったりした。おばあちゃんやお好み焼き屋のことがあって、広島が大好きになった。人が暖かい。それ以外は道中で、声かけられたりはしなかった。世間の人たちは自分達なんかに興味がないんだな、と思った。そう思ったら、何するにもビビらなくていいんだなと思うようになった。
もう1つの大事なことは、バンド活動を頑張ったことだ。フォークソング部と軽音部の中から選りすぐりの4人を集めて、バンドを作ってやっていた。長野のスタジオ付きペンションまで合宿に行くほどの気合の入りっぷりだった。にも関わらず、ライブの入りはあまり良くなかった。ライブは頻繁にやっていたが、そうすると逆に「いつでもやっている」と思われて、友達を誘っても中々来てくれなかった。この時初めて、「行けたら行く」の本当の意味を知った。ライブはそんな感じだったけど、メンバーと連むこと自体が楽しかった。というのも、メンバーの中に1人、深い思考が好きな人がいて、話しているうちに自分も「考えること」が好きになった。色んな物事に対して、自分の仮説を立てて検証して修正していくことを学んだ。後から振り返ってみると、この時に考える癖が付いたことで、マーケティングに役立つようになったと思う。2人でアウトプットすることでインプットの質も上がった。留年に関して、お金関連については親に申し訳ないと思っているが、学んだことは多かったので、自分の経験としては人生にとってはめちゃくちゃプラスになっていると思っている。
3年生に上がっても、生活は大して変わらなかった。相変わらず学校にもそこまでいかないし、そもそも授業自体も少なかった。この頃にはパチンコでしっかり月30~40万ほど稼げるようになっていた。そして相変わらず週8で通っていた。パチンコの技術は更に向上して、日にちによって店の力の入れ具合が違うことや、どの台を出すかを決める人の癖まで分析していた。3年生も、大学の恩情があってそのまま進級した。
4年生に上がって、研究室が始まった。
その年の研究室はダブっている人しかいないから、研究室は選り取りみどりだった。それでフォークソング部時代の友達がいたトップレベルの研究室に行った。その友達の下に付くことを目的に行ったのに、「同じ部活で組むのは禁止」と言われてしまい、他の人の中から院生2年の人(本来は同級生)の下についた。研究は意外と面白く、毎日行っていた。糖尿病の研究で、ラットを解剖しまくっていた。4年生の10月くらいに研究が終わってからは、国試勉強を始めた。ほぼ0からのスタートだった。ちなみに5月に受けた最初の模試では、240点満点中30点台。確率的には適当に選んでももう少し点数がいいはずなのに、謎だ。そしてまた下から2番目だった。それでも「1年あるし、まだ大丈夫でしょう」と高を括っていた。12月末に予備校の講習へ行き始めたけど、全然わからなかった。その時初めて「1月1日から勉強しよう」と発起した。1月1日からは、起きている時間を、散歩以外には全て勉強に費やした。他の場所に行く時間が勿体無いから、全部自宅でやっていた。色々手を出すのは無理だったので、青本よりも短いオレンジ本だけをひたすら集中してやっていた。100回くらい繰り返しやって覚えた。この勉強方法は浪人時代に覚えていたのだが、色々手を出すより同じものを何回もやったほうがいい。そうしていくうちに「まじでわからん」だらけの中から「あっこれわかる!」が出てくるのが嬉しくて、続けられた。それに、他の教科に跨って知識がつながっていくのを実感して、「これがコネクティングドッツか」と思って感激したのもモチベーションの一つだった。そうして過ごして迎えた2月中旬の卒試は、無事に受かった。そしてとうとう3月初旬に、国試を迎えた。国試1日目が終わって、カプセルホテルに泊まったが、一睡もできなかった。1日目の出来が不安すぎて。明日もやばかったら落ちる、と思うと眠れなかった。覚醒してしまってからは、めぞん一刻をずっと読んでいた。五代くん…よかった…
「1日目は最初に選んだ回答を変えたりしていたのがよくなかったな」と思い至り、2日目は思い切って最初の選択を変えずに行ったら、結果的に点数が良かった。薬理は満点を取った。ちなみにこの年は特殊な年で、留年している人しか国試を受けない年だったからか、会場にいる人はみんなアホだし喫煙率が高かった。俺もタバコを吸おうと喫煙所に行ったら、吸殻が山のように積み重なっていて、小火になっていた。その時たまたま俺が見つけて報告したからよかったものの、運が悪ければ大火事になっていた。(Fizz先生同じ会場で受けたが、小火のことは知らないと言われた。)そんな出来事とは裏腹に、俺は国試にも無事合格した。受かった時はめちゃくちゃ嬉しかった。受かるなんて思っていなかった。自己採点で国試受かった時には、両親と抱き合って喜んだ。
国試終わった翌日にはまたパチンコに行った。国試勉強のためにしばらく行っていなくてパチンコの研究はできていなかったが、ちょっと遊ぼうくらいの気持ちで行ったら2時間で10万勝った。この日はラッキーだった。
そして来たる卒業式には、何か一発やってやろうと思っていた。当時は大西ライオンにハマっていたから、ライオンキングの格好で行こうかななんて思っていた。けど友達何人かに言ってみたら、なんとなく滑りそうな雰囲気を察知して、大西ライオンはやめた。他に何かもっと強いのはないかなと思って調べていたら、歌舞伎のレンタルができるところを見つけてしまった。歌舞伎は卒業式という一大イベントにふさわしい日本芸能だし、赤い髪もスーパー目立つし、顔のメイクもバッチリ決めれば、会場は俺のものだ!これやわ!と思って急いで着物のレンタルも美容室のメイクも予約して、当日を迎えた。美容室の人なんかは歌舞伎のメイクを学んでまできてくれて、着付けも終わって準備満タンで会場へのタクシーを待っていた。その時に、自転車でそばを通っていった子供から「なんかいた!」と言われた。まあ子供からすれば「なんか」だよな、と思った。タクシーに乗っている間も、道ゆく人に指さされたりして、運転手さんに謝りながら会場に向かった。会場に着いても、誰も俺を俺だとわからなかったし、俺も自分から名乗るのは嫌だったから、しばらくは孤独な歌舞伎野郎がいる状態だった。でもそのうち友達が気づいて、わあーっと盛り上がり始め、友達と写真を撮ったり、知らないおばさんに写真を撮られたり、よく知らない学生に先輩ですかと声をかけられたりして、色んなインタビューを受けつつ式典が始まるのを待っていた。みんなの喜び具合は期待通りだった。すると学生課の人がきて、何を言われるのかと思えば「その格好じゃ卒業式には出られない」と。
え!?おかしない!?周りの女子たちはメイクして毛もつけて、一緒やん!なんでこれはあかんねん!と主張したが、アカンもんはアカンねんと言われ、しょーもな、と思った。そんな明確な理由もなく一人の学生の思い出を奪っていくような奴らだ、そんな奴らが主催する卒業式に俺は出る必要はない、とまで思っていた。顔のメイクを落としてきたら式に出す、と言われたが、もういいです出ませんと言って、一人ベンチで待っていた。この学生課の対応だけは想定外だった。
式典は代返(しかも大声)でしてもらって、卒業証書は後で教授にもらいに行った。教授は普段厳しいけど、突拍子もない歌舞伎の格好とかそういうのは大好きで喜んでくれた。こうして俺は、大学内で伝説になった。
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