川野義光@おっす社長
人生を振り返る①
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人生を振り返る①

川野義光@おっす社長

おっすおはようございます

Twitterの企画で、自己分析の上位版であるNET(ナラティブなんとかかんとか)をさかいさん(https://twitter.com/ak_csakai)にスペースで公開実施していただきました。

NET(Narrative Exposure Therapy)とは?
https://www.kongoshuppan.co.jp/book/b514585.html
この本の説明部分が参考になります。
トラウマ云々書いてますが、「今回は自分の人生を6-8の単元に分けてお話し、それを文字起こしする」という内容で行いました。

かなり心の深い部分までお話して文字起こししていただいていますので一部有料としています。悪意に晒されないための予防線としてご理解いただけましたら幸いですおっす


今回は全8章中1〜2章のお話です。

生誕〜高校時代まで、お楽しみください〜!


①生誕〜中学時代


生まれは大分県別府市。
里帰り出産のため、別府市にはほぼ滞在していない。唯一覚えているのは、就学前後にばあちゃん家へ遊びに行った時のこと。近所の子らとローラーブレードで遊んでいて、バコーンとコケて、膝を思い切り擦り剥いたことがあった。一緒に遊んでいた子が、その辺で摘んできた草を水に浸けて「これで薬草だから」と傷に当ててくれた。それで治ることはなかったが、仲良くなれた気がして嬉しかった。

育ちは大阪府高槻市。
5歳まで、おとんの仕事の関係で社宅に住んでいた。おとん・おかん・俺・3歳下の弟の4人家族。住んでいた社宅は、風呂場にナメクジがめっちゃ出るくっそボロいところだったが、近所間の仲は良かった。
そこでも怪我をした思い出がある。一人で工事現場に行って遊び、土管からピョンと飛び降りる謎の遊びをしている最中に、飛んだ先で釘を踏み抜いたことがあった。誰もいない自宅前で血だらけになって立っていたところ、向かいの家の「しょうこちゃん」という小学3年生のお姉ちゃんが声をかけてくれて、家で手当てをしてくれた。母性を感じてすごく好きになった。けど顔はもう覚えていない。
俺は幼稚園に入ったのが遅く、年中の年齢半ばまで、どこにも属していなかった。無職だった。というのもおかんが「自分で育てる」と育児熱心だったためで、その頃のおかんの存在は自分の中でも大きかったと思う。それをよく表しているのが、弟が生まれる頃の事。おかんの体調が悪くなって緊急入院したため、面倒を見るためにばあちゃんが別府市から高槻市に来てくれたことがあった。ばあちゃんが料理を出してくれていたのに、美味しくなく感じて全然食べなかった。振り返れば「まずい」料理ではなかったが、そう感じるくらいおかんの料理が食べたかったのだと思う。そのくらい、その頃はおかんに依存していたようだ。

5歳になってから、滋賀県草津市に引っ越した。
弟が生まれて、5人家族になった。
草津市でも大きな怪我をしている。大学生まで過ごすこととなる新築マンションの11階に引っ越した時のことで、前の家とは打って変わってめちゃくちゃキレイな部屋だった。ベランダの窓ガラスも例外ではなく、キレイに透明すぎて「窓が開いてる」と思い込み、ベランダで遊んでいる弟を驚かそうと走って行こうとした。そして、実は閉まっていた窓ガラスを思い切り突き破ってしまった。「あっ閉まってた」と思ったが、脚を16針縫う大怪我になった。血だらけなのに不思議と痛みは感じず、パカッと開いた脚の怪我を冷静に見ている自分がいた。怪我の軽い手の方が痛いくらいだった。弟はガチでビビっていた。おかんもパニックで、病院に電話してくれたが言っていることを聞き取ってもらえず、間違い電話だと思って一度切られたことをよく覚えている。それが時期的にちょうど幼稚園転入と重なったため、脚が包帯でぐるぐる巻きの状態でみんなの前で自己紹介をすることになった。そんな状態なので、当然注目を集めたが、それを「めっちゃ嬉しい」と感じた。照れくさいがもっと見てくれと思っていた。脚は痛いというより痒かった。
この頃の後悔が1つある。高槻市にいた頃に1年くらいやっていたピアノを、滋賀県にくるタイミングでなぜかやめてしまったことだ。ピアノをやっている人は「音楽戦闘力」が高く、コードがすぐわかったりちょっとした演奏がすぐできたりする。今思えば続けてやっておけばよかった、というのが人生唯一の後悔だ。

小学校は滋賀県の地元の学校。
幼稚園で「目立つこと」の味を占めてしまった俺は、1年生の頃めっちゃ変な奴だった。目立ちたいがために鳥のフンを舐めようとしたりしていた。またこの頃、学校をうまくサボってみたい気持ちがずっとあった。普段、学校にいる間の外の世界はどうなっているんだろう、と気になったからだ。「出席は席にいるかどうかで見られる」と思っていたので、「席自体がなければ欠席してもバレない」という謎理論で自分の机を隣の教室の移動させて席自体を隠し、遊びに行っていたりしていた。もちろん一瞬でバレた。怒られてからは、一回やって満足もしたということもあり、小学校ではサボっていない。友達は多かったものの、そういう「変なこと」は一人でやっていた。サボったのも一人だった。群れて何かをする、というタイプではなかった。
小学生の頃から、みんながあまりやりたがらないことをやりたがった。委員会にも積極的に入っていたが、「みんながやりたがらない」ならどの委員会でもよかった。また、みんなから嫌われているような子と仲良くしようとしていたことも、その中の一つだった。「かわいそうだ」「こいつばかりさみしい思いをする必要はないだろう」と思っていた部分も大きい。そういう子たちは悪い子たちではなく、遊んでいて楽しい。特定の子だけとずっと遊ぶことはしておらず、色んな奴と遊ぶ中の選択肢の一つにそいつもいる、という認識だった。分け隔てなく接して「周りは(その子を)嫌がっているけど俺は嫌じゃない」と考えていた。
小学生の頃は、習い事を色々とやっていた。書道、そろばんちょっと、水泳ずっと、サッカーちょっと、英語教室。自分からやりたいと思って始めたり、友達に誘われて始めたり、理由は様々だったが、親に言われて始めたものはなかった。習い事はなんでもやらせてくれる、というよりも、やらせてくれるまで俺が諦めなかった。

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おっすおはようございます 株式会社メタルファーマシー代表取締役 元パチンコパチスロガチ勢 メタラー