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心の目の開き方を否定神学風に考えてみた

「一年の計は元旦にあり」とはよく言ったものですが、私は毎年、個人的なスローガンを立てています。去年のスローガンは「心の目、開いてますか?」であると友人に打ち明けたところ、爆笑されました。

心の目を開くことは、かなり難しいです。たとえばブラタモリでタモリが始めた訪れた土地で「ここは昔、扇状地だったんでしょうね~」などと見抜き、「さすがタモリさんだ」と周りの人は驚くのですが、タモリと一緒に東京を散歩出来たらきっと楽しいだろうな~って私は思います。地形について横で解説してくれそうですよね。
それで私もタモリを見倣って、地形図や古地図を片手に散歩してみるのですが、ふと思うのです。「私は今、心の目が開いているだろうか?」って。地形を楽しむ目を養えば養うほど、他の見方がそぎ落とされてゆくのではないか、と。地形職人として修業を重ねるほど、頭が地形図で凝り固まってしまい、柔軟な物の見方が損なわれ、逆に心の目は狭まるのではないか、と。

あるいは私の友人に元ナンパ師がいるのですが、彼は街行く女性を一目見ただけで「すぐヤレそうな女か」を察知する特技を持っています。すぐヤレる女を業界用語で「即系」というそうで、「即系」は靴や帽子や上着の各アイテムはおしゃれなのだけど、全体のコーディネートが微妙におかしいのだそうです。実際に私も彼のナンパ術を横で見せてもらったことがあるのですが、その的中率はかなりのものです。彼いわく、「即系に狙いを絞って声をかけることで、ナンパの成功率は飛躍的に向上する」のだそうです。彼が匠の境地に至るまでに相当な努力を要したのだと思いますが、この女性の尻軽度を見抜く努力を重ねていくと、やはり心の目を開くこととは逆方向に進んでいくような気がするのですね。

あるいはどこの職場にも、裏の意味を素早く察するおじさんがいます。たとえば会社からスタッフ向けにプリントが配られて、なんだか難しい言い回しが長々と続く文章を必死に読んでいると、横から同僚のおじさんがプリントをのぞき込んで一言、「給料カットの口実だよ」。
なるほど、そう言われるとたしかに会社は給料カットしたいけど、はっきりと言いづらいので遠回しに言っている文章に読める。裏を読むおじさんは、発言の裏の意味を一言で言い当てるんですよね。別に頭がいいとかじゃないんだけど、カンが鋭いのですよね。

このカンの鋭さについてもう少し言えば、たとえばオリラジの中田がシンガポールに移住するとき、中田本人は「日本で事務所に所属しなくても成功できるという前例をみんなに示したい」的なきれいごとを言っているけど、岡田斗司夫いわく「節税目的」だそうです。中田はかなり稼いでるし、シンガポールは富裕層の所得税が安いでしょうから。もちろん中田自身が述べている夢のある移住理由も嘘ではないと思いますが…。

岡田斗司夫のカンの鋭さと、職場にいる「給料カットの口実を見抜くおじさん」の鋭さは、同じタイプの鋭さだと思うのですよね。利害関係を見抜くのが得意というか、「人は損得で動く」っていう人間観に基づいて、そのうえで世の中を見抜く目を持ってるのですよね。しかし、たしかに人間は損得で行動することもありますが、ときに理念で動くこともあるので、あらゆる人間の行動を損得だけで解釈すると、やはり心の目は閉ざされるような気がします。

なんだか私は否定してるだけですよね。否定から入る人は嫌われるそうですが、私の場合、否定から入り、否定し続け、否定に終わります。このように否定し続けることによって神様の認識にアプローチする方法を、否定神学と呼ぶそうです(合ってるよね?)。つまり、「神様とは何ぞや?」と考えるときに、否定神学では「~でない」、「~でない」、「~でない」と否定を積み重ねることによって、神について考えていくのですね。

心の目を開くこととは、言い換えれば、神様の認識を望むことです。
否定し続ける思考法を通じて神について考えていた私ですが、神についての具体的なイメージは一切湧かないです。
なぜなら、「人間は地形などの自然環境によって規定される」と見るのではなく、ナンパ師のように「人間は性欲で動く」と見るのでもなく、岡田斗司夫のように「人間は損得勘定で動く」と見るのでもなく…という風に、一切の具体例を拒絶するのですから。

心の目を開くことは人間には無理だと言ってしまえばそれまでですが、スローガンを立てるくらいいいじゃんね。

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