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ロッキングオンの時代●第三章●時代の風

◇「ロッキングオンの時代」は、単行本化を目指して執筆中です。ここでは、「章」ごとにまとめていきます。今後、章の中で、今後、加筆、修正、変更などをしていきます。

1.子ども調査研究所
2.真崎・守

時代の風(1)■子ども調査研究所

 すこし時代を戻して、ロッキングオン以前に僕が関わったメディアについて話をしたい。ロッキングオンが生まれた背景には、特別な時代があり、無名でユニークな人材が、町をうろついていた。日本では、ロックのムーブメントと同時に、まんがカルチャーの急速な台頭があり、「ロック&コミックス」は、新しい世代にとっての、精神的な支えでもあった。

 僕の文章を社会的なメディアを通して最初に評価してくれたのは、子ども調査研究所の高山英男さんである。1969年に読書人という書評新聞で、まんがの特集をしていた。「漫画主義」という石子順造を中心としたマンガ批評誌があり、そこのメンバーである梶井純という評論家が、当時、僕の好きだった真崎・守や宮谷一彦を批判する特集をやっていた。漫画主義は、つげ義春らの「ガロ」に依拠するマンガ家たちを絶対のものとして、「ヤングコミック」などの一般雑誌でニューウェーブとして台頭してきた、真崎、宮谷らを敵視していた。僕も「ガロ」は好きだったが、この批判にはむかつき、反論の投稿をしたら、読者欄に掲載された。それを読んだ高山さんが、読書人の編集部に電話して、僕の連絡先を調べたのである。個人情報を保護するより、個人情報を伝える意味が分かっていた時代である。高山さんから僕の家に電話があり「原稿、面白かったから、会いたい」と言われた。僕は「酒でも飲ませてくれるなら行きますよ」と答えたようだ。

 子ども調査研究所では、斉藤次郎さんが編集長になって、「まんがコミュニケーション」というマンガ情報新聞を発行する準備をしていた。スタッフは安藤さんと高橋さんという編集者である。高橋さんは、その後、直木賞作家になった高橋義夫さんだ。創刊号は、真崎・守のインタビューが巻頭に掲載されることになった。僕は、ただの学生野次馬としての参加だったが、神宮前の子ども調査研究所で、次郎さんが行った真崎・守のインタビューに立会い、テープ起こしの作業をやることになった。はじめての仕事だし、作業は手間取ったがなんとかまとまった形で提出できた。新聞形式なので、大工さんの使う釘袋に「まんがコミュニケーション」と印刷したものを書店や喫茶店に持ち込み、設置してくれるように頼んだ。

 真崎・守は、当時、少年画報社の「ヤングコミック」(通称ヤンコミ)を舞台に、エネルギッシュに時代を書き込んでいた。僕らは、水に飢えた犬のように発行を待ちわびていた。「はみだし野朗の子守唄」は、今まで見たことのないマンガで、しかも、時代と、時代を生きる男と女を描いていて、的確に僕らの心を射抜いていた。真崎さんは、僕より10歳上で、当時30歳ぐらい。だじゃれのような言語感覚と、唐突なストーリー展開で、しかも、底流にある哀しさは、時代背景とあいまって、僕だけではなく、僕の周辺の仲間たちも数多く魅了していたマンガ家だった。ヤンコミには岡崎英生さんという実力編集者がいた。彼は、少年画報社の労働争議で退職し「タッチ」という雑誌を作った。これはわずかの期間しか出なかったけど、岡崎人脈のマンガ家たちが並んでいた。確か、四谷に編集部があり、僕は真崎さんと遊びに行ったことがある。

 ヤングコミックというマンガ雑誌には、時代感覚の鋭い新人作家が続々と登場した。真崎さんは、10歳年上の先を行く人だったが、宮谷一彦には同世代意識を感じた。同じ頃、確か、漫画アクションで掲載されたのだろうか、ダディグースというマンガ家が現れた。突然現れて、すぐに消えたマンガ家で、こんなエネルギッシュなマンガは見たことがなかった。1981年に僕が始めて出した単行本「企画書」の後記で、感動したマンガとして「白土三平、つげ義春、真崎・守、宮谷一彦、ダディグース」と書いた。すっかり忘れていた頃、「ダディグースは矢作俊彦らしいぞ」という話を、村上知彦から聞いて驚いたことがある。時代だ。僕は、時代とのかかわりあい方を追求する人間だけを信じるのだ。そういえば、矢作さんが大友克洋と組んで「気分は戦争」というマンガを連載していたが、あの感じを、もっとポップでアナーキーにしたのがダディグースだった。

 子ども調査研究所の本業は、マーケティング調査だった。電通や博報堂の人たち、バンダイや森永製菓などのメーカーのサラリーマンが頻繁に訪れていた。新聞社や出版社の人も高山さんのコメントを求めに訪れていた。神宮前のマンションの数部屋を使っていたが、会社自体は、数人のスタッフによる小さな組織だった。東京大学の大学院を中退した近藤純夫さんが新しいメンバーとして参加したばかりだった。

 高山所長は、もともと「現代っ子」という言葉を作った阿部進(カバゴン)さんを発見し、本を編集した人である。また、映画好きの連中にはバイブルのような本であった「映像の発見」(松本俊夫)も高山さんの編集で、タイトルも高山さんがつけたと聞いた。高山さんは、新しい才能を見つける臭覚にたけていて、自分からは世の中に出たがらない人である。編集者の人生というのは、こういうものなのだと、僕は学んだ。学生だった僕を呼んだのと同時に、関西の大学で「月光仮面」というミニコミを発行していた村上知彦(まんが評論家)にも声をかけていた。かくして、僕と村上くんとは1970年という時代に、お互い東京と関西の大学生でありながら、高山さん経由で友人になる。村上くんが東京に出てくる時は、映画に行ったり、酒場に行ったりし、僕が関西に行く時は、おいしいおでん屋やうどん屋などを案内してもらうことになる。また、当時、慶応大学にいた鈴木敏夫さんも、同じ時代に子ども調査研究所に出入りしていて、近藤さんのアシスタントみたいなことをしていた。大学を出て徳間書店に入り「アサヒ芸能」の記者から、「アニメージュ」の編集長になり、今ではジブリの名プロデューサーである。やがて各界で有名になる若者たちが、続々と子ども調査研究所のある神宮前の古いマンションに集まってきていた。


 ちなみに、斉藤次郎さんの関係で、僕は「ニューミュージックマガジン」の読者ネットワークにも参加することになる。四谷や信濃町の書店に行って、ニューミュージックマガジンの入荷状況と売り上げ部数を調べて報告するという係であった。岩谷宏も松村雄策もニューミュージックマガジンに投稿した経験があるというから、当時の、投稿少年たちは、あらゆるところで接近行動をしていたのだろう。

 僕の文章を最初に評価してくれたのが高山さんだとすると、次は、レボルーションに投稿した原稿を評価して連絡をくれた渋谷陽一になるのかも知れない。


 僕は、音楽評論家ではなく、まんが評論家になりたいと思っていた。

▼写真は、1975年ぐらい。飛騨高山で。右側のタバコくわえているのが真崎さん。左の上半身裸が僕。右隣りがカミさん。


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