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時代をつらぬく面白装置/宝島’80年5月号

◇この原稿は、ポンプを創刊して2年目の体験を基に、1980年に宝島に書いた原稿。宣伝と報告を兼ねた文章だが、当時、僕がどういう想いと意図で、この雑誌を作ったかが、インターネットが普及した今だと更にしっかりと分かる。しかし、それでも「業界」という奴には、古い体質意識がしぶとく生き延びているような気がする。

                   
時代をつらぬく面白装置(ポンプ中間報告)

 前口上

『ポンプ』というのは、世にも不思議な紙の束。この世に生活している、ありとあらゆる人間の像が、あら、浮かびあがってくる。あなたもいるし、あなたでない人もいる。昔のあなたもいるし、これからのあなたがいるかもしれない。ついに「ポンプって面白いのかつまんないのか、さっぱり分らなくなっちゃった!」という混乱あふるる手紙までいただいてしまった。面白いといえば、これほど面白い装置があろうか! つまらないといえば、これほど激しくつまらない装置があろうか! ってなシロモノ。さあさ、『ポンプ』のこれからの発展はいかに? お代は本屋でお支払いください。

ポンプ原点イメージ 

 やっぱりさ、六○年代のオーラスだと思うんだな。管理社会が、どんどん進行していって、人間も分類化されていった。まだ分類のしかたは、「エリート」「ノンポリ」「ドロップ・アウト」程度の大雑把なフランク・ザッパだったけど、やっぱ、個々の人間的質を無視した色わけ分類が進行していたんだと思う。学校が完全にランキング制になってしまい、人間関係も、ある狭い枠の中に閉じこめられそうになった。こちら側の「他者に出会いたい衝動」は増大する一方だったのに。

「学校の友だち」なんて、同じ地域に住んでるとか、同じ程度の頭脳レベルとか、親の経済状態とか……みんな、偶然というか、本人の意志や指向性と切り離されたところで、知り合うわけ。だから学校の中で、ホントにピッタンコの「友人」に出会えるなんて奇跡的なことだよ(小学校の友人と今でもつきあってる人って少ないんじゃないの?)。学生というのは、学校という、わけのわからん分類方法で人間関係を規定されてしまう。ぼくはそんなの絶対イヤだった。だから街に出た。かつて「新宿」とは、そういう街だったって気がする。他人と出会うってことは、自分と違う世界に入っていく、ということだ。街は広場だった。街はメディアだった。いろんな世界が流入してきた。どんな博識の教授よりアルバイト先の中小企業のオヤジのほうが、人間として偉くみえた。どんな授業よりも、喫茶店で隣に座っている人と討論する方が有意義に緊張した。

 深夜放送が登場してくる。同人誌がミニコミに変質してくる(=これはメディアの歴史の中ですごく重要なポイントだと思うのだが)。評論家はまだのさばってるけど、でもかなりボロを見せはじめていた。知識中央集権主義とも思える、あらゆる文化の権威が内部破タンを見せはじめる。もちろん旧式のガチガチ組織論は経済・政治その他の分野を問わず、バカにされはじめる。時代の主体は、組織や形式の立場にではなく、むしろ、それらをはみ出していくぼくたちひとりひとりの側に移ってきたように思えた。……事実はどうであろうと、その時ぼくがそう「思った」ということが、今ぼくがやってる仕事『ポンプ』の出発点です。

 七〇年代を知らずに八〇年代を語るな 

 ついで七○年代ですが、ぼくの場合、前半は六○年代の残務整理みたいなことをし、後半に入って再建計画ですな。よく「七○年代は何もなくてつまらない時代だった」という言い方をする連中がいるんだけど、バホやな。映画じゃあるまいし、ハデなアクション・シーンがあれば面白いとでも言うのだろうか。時代に対して、まるで無責任な観客じゃねえか。時代を語るって、つまり、自分自身が何を考え、どう動くか、ってことでしか語れないはずじゃないの? ぼくらにとって、「無駄な時間」なんてあるはずがない。六○年代は七○年代になって、ちゃんとダメになったわけで、そのへんの「本当にダメな部分」と「ダメにしてはいけない部分」を、はっきり整理する時代として、七○年代はものすごく重要な時代だったと思う。おんなじことをやったって、おんなじ失敗をするだけ。そんなことは最初からやんねえのだ……というのが歴史であります。世の中が面白いとかつまんねえとか言ってる時間があったら、自己検証でもしさらせ。

 同志的友人であるドクター・坂本正治はこういう言い方をした。「六○年代に学生運動があって、あれがポシャッたのは、学校という限られた範囲の中で拠点を作ってしまったからだ。七○年代には暴走族があって、移動する能力はあったけど、頭ん中がカラッポだったのでダメ。移動できる拠点は何か? それはメディアですよ」。どないでっしゃろか?

 なぜかコンサート 

 ある年のある月のある日。突然、コンサートというのにシラけてしまった。ロック・ミュージッシャンがステージの上で「カモーン!」って叫んでるんだよね。しかし、よーく考えてみれば分るように、みんなが本気でそのアジテーションだかメッセージだかに呼応して舞台に駆け上がったらハチャメチャになってしまう。出て来い! と言いながら、実際に出て来ちゃ困るものなんて……。七四年のD・ボウイのコンサートには、そのへんの痛みがあった。「ひとりひとりの手を握りしめたい、しかしぼくはひとりのロックン・ロール・スター、すべての人を抱きしめることはできない……」。しかしやがて、コンサー卜の状況は固定化され、おざなりの熱気とおきまりのアンコールの声や舞台と客席の距離は、ロック・コンサートでさえ、スターとファンの距離でしかなくなっていった。七八年のボウイ公演は、海峡のように冷え冷えとしていた。

「名古屋の某バンド(ピヴィレヌ)は、ステージの高さをアーティストとオーディエンス、同じにしろ、と要求する。更にバンドがノッてくると、ステージから観客に向かって『キャー、ステキ!』と叫んでテープが飛ぶ」

 「カモーン!」と叫ぶ前に、誰もが「出ていける」ステージと情況を用意しろ。ぼくもロックのメッセージなりアジテーションなりにイカれて、『ロッキング・オン』という雑誌の上では、けっこう騒いだつもりだけど、ある時、奇妙なことに気がついた。「出て来い!」と叫ぶでしょ。そうすると「出て来い! と叫ぶ人間だけが出て来る」のです。こんなこと当り前なんだろうけど、こりやヤベエと思った。そいで、つまり、TVの画面にアジテーターが出て「みんな出て来い!」と叫ぶんじゃなくて、誰も出て来ないと永遠になんにも映らないTV装置そのものを作ろうと思った。ぼくは、今「雑誌」を作ってるという意識はない。白い紙の束を全国に流通させることが、ぼくの仕事だ。黒いインクは、みんなに伝えたいことがある人、個人がやる仕事だ。ぼくの仕事は、一人→不特定多数につながる電話回線のとりつけだ。この電話を使って交わされる会話の中味をでっちあげることではない。ぼくがモノを言うとき、それは〈編集者〉としてではなく、ひとりの、みんなと同じ〈個人〉であるべきなのだ。

Q&A

質問 今後ポンプの読者が増えて、原稿がやたらと来たら、当然切り捨てられる(ボツ)原稿も増えるわけでしょ。一部の人の原稿しか載らないのなら最終的に「あなたの手紙で作る雑誌」とは言えなくなるんじゃない?〔近野祐子 神戸市〕
拝復 今のポンプは毎月一○○○人以下の人の手紙しか載りません。手紙の方は一五○○~二○○○通きます。ですから、これは、回線を増やしていくしか解決がつかないわけです。ただし理解していただきたいと思うのは、ぼくらの目的は、単に面白い「雑誌」を作ることだけでなく、この社会に、一人→不特定多数につながるコミュニケーション回路を設置するということです。全員の通信がスムーズに流れるようなシステムを作り出すことです。今は、確かに、ぼくたちの力量不足によって、一冊の雑誌しかないけど、もっと多様なスタイルを作っていくつもりです。
 たとえば「没のないポンプ」というのも可能です。『アルバイト・ニュース』方式で、発信者が金を払えば、つまり、電話と同じようなシステムを考えれば良いのです。でも、そうすると、今の社会では金をたくさんもってる人だけが言いたいことを言える、というふうになってしまうでしょう。
 ぼくはメディアというのは、最終的にダダになるべきだと思うのです。すくなくとも、情報というのは誰のものでもないはずです。ひとりで生きてるわけではないのだから、あなたが考えたことも、きっと、あなたの経験や周辺の人に影響されてできたんだと思います。だから、情報はみんなのものです。雑誌の値段が他の物価に比べてあがんないのも、きっと、みんなが「情報はダダ」であることを知っているからです。『ポンプ』が、やがて、ダダか、せめてコイン一枚で誰もが通話できる装置に、きっとなると思ってるわけです。
 それまで、きっと永い時間が要ると思いますが、本当に必要なものであれば、実現するでしょう。これからもよろしく。

 スタッフしょうかい 

 ポンプのスタートは、『ロッキング・オン』で、ぼくが、これこれこういうメディアを作りたい……と書きはじめた時からはじまった。さまざまな意見や反応と同時に、具体的な行動を申しでてくれた人がいた。その人たちが、今、スタッフとして一緒に仕事している。つまり、なんというか、スタッフも参加型メディアなのだ。

 松岡裕典=ポンプをはじめる時は、まだ早稲田の学生だった、といっても八年生。すでにデザインの仕事で、ちゃんと食ってた人で、ポンプに入ったら収入が半減しちゃった人。今度、昔の仲間と、〝スタジオ806〟を作る。早稲田漫研のグループだけど、メンバ―八人のうち、六人が漫研のキャップをやった人というんだから、大学の漫研の幹事長をやると、普通の就職はできなくなるみたいだ。AD担当。二六歳。
青木文隆=尾張のパンク小僧。エディター・スクール卒業後、編集砂漠を放浪。突然笑い出すかと思うと、フッと怒り出す。感情周波数に特性あり。編集&進行担当。二三歳。
橘川幸夫=これを書いてる人。ちょっと前までは、『宝島』の写植をうってた人なのだ。三○歳。

 編集作業は実に、この三人だけなのだ。あとアルバイトの人が協力してくれるけど、主力部隊はこれだけ。毎日、何十通って手紙がくるでしょ、それを開封して読んで分類して、という作業だけで、ぼくの一日が終わってしまうこともある。手紙を更に整理して、バッチイのはリライトして、タイトルをつけて、デザインして……昔、『ぴあ』の編集部に行ったら、やたらに働いてる人が大勢いて、聞くところによると、正社員が三○人、アルバイトが三○人いるそうで(隔金刊の前のハナシ)ヒジョーに腹が立ったのだ。あんなのコンピュータにやらせろ、と言いたい。ポンプだって三人でやってるのだ。あまった人間で、もっと有効な金の使い道を考えろよな、すこしは。

 ついでに言うと、某女性雑誌の読者欄は投稿が全然来ないので、中年のおっさんが、若い女の娘の気持ちになって書いてるのだそうだ。あるいは、みんなからのお手紙を待ってるよ~、なんていってる某ラジオ局では、封書の手紙はメンドウなので開封もせずに捨ててしまう場合があるらしい。アホらし。一体、なんのためにメディアに関わってるんだろ。

 スタッフの話に戻るけど、まあ一応、ポンプをはじめる前までは、それぞれの仕事で食ってたわけだけど、半分はアルバイトみたいなもんですな。大体からして編集長であるぼくはこれまでプロとして編集の仕事はおろか、勉強もしてこなかった人間です。また、一生、編集やらメディアやらに命を張ろうという人間ではありません(ここだけのハナシ、食うだけだったら写植屋の方が全然ワリ良いですぜ)。そいで、ときどき「読者」という人が現われて、「あのう、私、将来、編集者になりたいんですが何かアドバイスを」とかやってくるんですけど(なぜか若い女の子ばかり)そんなこと聞かれてもこまるんです。知らないんだもん。だから「いやいや、編集なんてアホくさい職業ですよ。それより写植の方がもうかります、えー、写研に行って相談すれば……」てなことしか言えないのです。

 でもさ、いろんな経験や知識があるということは、確かに強いことなんだけど、その強さが、ある枠を作ってしまう、ってこともあるでしょ? ぼくらは強くないけど枠も見えない……あーあ、編集長がこんな呑気だと、まわりの人は苦労するな、と、他人言のように心配はするのだ、一応な。

 ジャーナリズムってなあに 書店はどこも相変わらずにぎわっているが、よく見てみると、この一○年間で確実に変わったことがある。子供たちや学生は店頭のマンガを立ち読みしたり情報誌を繰ったりしているが、その混雑を抜けて文芸や哲学書のコーナーに行くと背広姿の三○歳以上ばかりが目につくのだ。若いのは、レジの横に積んである『ぴあ』を買うと、後は用なし! とばかり帰ってしまう。この風景がまず現在である。

 今、いわゆる売れている雑誌というのは、マンガはちょっと置いといて活字雑誌でいえば、六○年代に出揃ったものばかりだ。七○年代に出た新しいスタイルの雑誌といえば、『ポパイ』と『ぴあ』に代表される種類のものだろうが、ここには、これまでの出版ジャーナリズムの常識を根本的にくつがえす発想が胚胎していたと思う。ジャーナリストがさまざまな現場に飛び、人に会って取材し、ジャーナリストとしてのそれぞれの視点で情況を把握する……というのがこれまでの「ジャーナリズム」ってやつのありかただったと思う。しかし『ポパイ』には物を物として、『ぴあ』には事実を事実として、ただそれだけを提示する、という発想があったはずだ。視点が対象の中に移行したのだ。だから旧来のジャーナリストたちは、七○年代の雑誌を軽蔑する。あるいは、七○年代の情況がそのような質のものであったから、旧来の文化人は七○年代を「つまらない時代だ」といって軽蔑する。「ジャーナリスト」というエリート意識の自己破産について語るジャーナリストは、ついに誰もいなかった(と思う)。「どうやったら売れるのか分った。とにかくポップ・アイみたいなものだと売れて、特集もの(レゲエ特集とか)みたく、こちらで視点を持って編集したものは売れない。編集部が面白がってノッて作ったものは売れない。どうすれば売れるのか、は分っているんだけど……」。これは『ポパイ』の人が話した、ということの又聞き。正確な発言じゃないかもしれないが、最近の『ポパイ』の妙に古風なジャーナリズム先祖返り傾向を思ってみると、なるほど、『ポパイ』は、方法的新しさと体質的古さがミックスした雑誌なんだなあ、と感じてしまう。

 子ども調査研究所が七九年の暮れに発表した資料がある。中高生がどういう雑誌を読んでいるか、という調査なのだが、「今回の調査でも、各層一○○人ずつの回答者が、なんと、中学男子で八八誌、中学女子六六誌、高校男子で一三一誌、高校女子で一一○誌の誌名を回答しているのである」(高山英男)。

 分りますか? 高校生の男子一○○人に「何を読んでる?」と聞いたら、一三一種類の雑誌名が答えとしてかえってきたということだ。これだけニーズが多様化してる中で、一○○人全員が満足する「編集方針」なんか、ありっこないのだ。ポップ・アイが面白かったのは「編集」という作業が、読者の手にゆだねられていたからではないか。素材を調理し、味つけして食べさせるのが、これまでのジャーナリズム。素材を素材のまま提出し、それをどう調理するかは読者の側である、というのが、いわゆるカタログ文化の本質的な意味だったのではないか。〈編集者〉のイメージが先行して、その枠の中に「事実」をあてはめていく、というのが、今までの、そして今も大半を占めているジャーナリズムの本質なんじゃないのか。 

 もはや、優秀な編集者が抜群の企画をひっさげてきたからといって、面白い雑誌ができるわけない。そんな時代じゃないんだ。個人の資質や才能で新しそうに見えるものはマャカシ。システムそのもの、システムを形成している、ぼくたち全部が新しくなるしかないのだ。

スピード・オブ・ライフ 

 メディアの上から〈作家論〉や〈作品論〉が消えていく。マンガは相変わらず多読しているが、昔のように、個々の作家や作品に固執したりはしない。マンガという全体の流れの中にいるだけで、誰が描いた作品だから注目するとか期待するとかいった興味の持ち方はしない。音楽もほとんど同じ。ミュージシャンの経歴とか作品動向とかどーでも良い。お勉強なんて真っ平だ。誰が何を言いたいのか、なんてことに関わりたくない。言った言葉だけ、鳴った音だけを聞く。一カ月前に自分が何を考えていたか、何を言ったかが、すごく遠くに感じる。まるで他人の考えのように。すごいスピード。ものすごいスピードで、ぼくは世界中の他人になってゆくのだ。

 メディアがただの、そこらへんにころがっているものになる。メッキのケバケバしさは失せたが、しっかりと固いものとして、ころがっている。サルトルなんて一冊しか読んだことないけど(それも途中でダウン)昔は、やたら「知識人の役割」をウソぶいてたオジンであることぐらいは知ってる。でも最近、週刊誌の片隅で「もう知識人の役割は終わった。かつて知識人が果してた役割は、今、ひとりひとりの中に根づきつつある」とかいうサルトルの発言を読んで、エライ人だと思った。日本で、かつてのサルトルをよいしょしてイバリくさってた知識人どもとは全然、関係ない人だと思った。古典的知識人は旧式メディアそのもの。ぼくは夢みる。やがて、そのへんの知識人が「ぼく、普通のおじさんに戻りたいんです」と、自らの位置に絶望することを。

おしゃべり感覚で数時間、ぶっとばしてみました。と、とにかく絶対おねがいだから、『ポンプ』を知らない人は、一度、見てください。二三○円。毎月一一日発売。

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