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情報化社会における師匠と弟子(1)

 若い時は「師匠」という言葉が嫌いだった。40歳を過ぎた頃から、僕のことを師匠と呼ぶ人間が現れて、いやいや、そういうやめてくれ、と言っていたのだが、50歳を過ぎる頃は、強くは否定しなくなった。そういえば、40代の半ばに初めて専門学校で定期的な授業を担当した時も「先生」と呼ばれることに抵抗があって「先生」と呼ばれたら「なんだ、生徒」と応えたりしていた(笑)。それも50代をすぎる頃から、先生と呼ばれても、それほど気にならなくなった。今では「弟子登録」のシステムさえ作っている(笑)

 師匠と弟子というのは、インターネット以前は、伝統的な技術や思想などを伝承するシステムだった。師匠は、先達の技術や知恵を人生を賭けて独自に追及し、弟子も人生と生活を賭けて師匠のノウハウを学び、盗んだ。落語家の方法である。

 しかし、情報化社会での「弟子と師匠」の関係は、それほど、濃厚なものではない。ある領域でのちょっと先輩、影響を受けたというよりも参考になった人のことを、安易に、師匠だメンターだと呼ぶ。あたかも、ファッションのように、自分を着飾るために、師匠という名前を利用する。そういう、薄っぺらな子弟関係が嫌いである。

 私にも師匠と呼びたい人がいる。真崎・守であり、岩谷宏であり、林雄二郎であり、山手国広であり、小谷正一である。彼等とは、自分が20代の時に出会った。でも当時は、彼らが師匠とは思っていなかった。ちょっと先を行く、信頼できる同志だと思っていた。親友だと思っていた。そして、その人が亡くなると、つくづく彼は僕の師匠だったと気がつく。

 師匠とは、自分が未成熟で、どうしてよいのか分からない時代に、そこにいるだけで、力強さと方向性のヒントを与えてくれる人である。回答を与えてくれる人は教祖である。回答のヒントを与えてくれる人が師匠であり、弟子はやがて、師匠を乗り越えようとしなければならない。表面的な「師弟関係」があふれている状況の中で、本来の「師弟関係」とは何なのだろうか。

 コミュニティ・マガジン「橘川幸夫道場」を開始した。いつも、何かやる時は、漠然とした衝動で動きだし、動かしてみて、はじめて、自分のやりたかったことが分かるものだ。変なネーミングも、意味があるのかも知れない。

 ここでは、私と弟子たちとの、本当の子弟関係を結ぶ場所になると思う。まず最初は、弟子の渕上周平と、橘川との対話からはじまった。今後、私と対話したい人は、声をかけてください。橘川流一門の旗揚げである(笑)

 情報化社会の中では、あらゆるものが権威的、先験的に存在するのではなく、共に影響しあって、それになっていくものなのである。

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