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安倍首相、荒木経惟、日大アメフト部。穴ぐらの価値観の死滅へ。

 安倍首相、荒木経惟、日大アメフト部。大きな批判にさらされている、これらの人たちは、それぞれ異質な世界の出来事であり、まるでつながりがないように見える。しかし、なにか、その異質な世界を通底するものを感じてならない。

 安倍首相は政治の世界での権力者である。現代社会のもっとも過酷な「競争」のひとつである選挙を勝ち抜き、勝ち抜いた政治家たちの更に過酷な権力闘争を勝ち抜き最高権力者にたどり着いた勝者である。首相という公的立場に立ったとしても、実態は生身の人間である。一般の庶民であっても、もし親友が議員になったら、交通事故のもみ消しぐらい頼んでみたくなるだろう。私人としての安倍さんの周辺にいる人間たちが、すべて善人とは限らないから、首相の権力を利用しようとする悪意を持った人間がいてもおかしくない。まして、首相に一番近い奥さんを利用してやろうと思う輩もいたのだろう。

 安倍首相が議会で野党の批判にさらされているのは、現実的な政治課題についてというよりも、「私人としての安倍晋三と公人としての安倍晋三」との関係性だろう。政治家の利得ともいうべき行政への私的介入は、これまで政治の世界では多かれ少なかれ当たり前の出来事だったのではないか。しかし、それが許されない状況に直面している。インターネットを中心としたメディアがそれを許すことなく、次々と安倍首相の矛盾点を洗い出して行く。政治という密室の中での出来事が白昼にさらされ、政治の常識が通用しなくなっている事態に違和感を感じる古い政治家も多いだろう。

 荒木経惟(アラーキー)のミューズであったモデルでダンサーのKaoRiさんが、アラーキーに物体のように扱われ人間としての尊厳を傷つけられたと告白した事件は、僕にとっても、大きな衝撃であった。アラーキーのスリリングな表現活動ばかり見ていて、その背景にある現実に目をやっていなかったからだ。アラーキーの活動も、また表現世界という密室での出来事であり、同業者や出版業界人やファンが作り出した、その業界の中で、アラーキーは天才という名の権力者であった。

 写真という表現メディアは、インターネットの普及によって大きな制約を受けた。被写体の肖像権がネックになって町中で自由に撮影が出来なくなった。インターネットに精通している編集者であれば、写真家が町中の人のスナップを撮影する場合は、スタッフを写真家に同行させ、撮影した対象に一人ひとり許諾書をとるというようなことをしている。インターネットの世界とは無縁なアラーキーは、そんなことはしなかっただろう。実際、インターネット以前でも、アラーキーは電車の中で乗客の写真を勝手にとって、警察に突きつけられたことも少なくない。そして、そうした自己表現を最大の価値とするアラーキーの体をはった姿勢こそが彼の評価の軸であった。アラーキーのモデルにも、ファンは勝手に共犯者のイメージを持ってしまっていたのだろう。そうした、狭い業界の中だけでの価値観と方法論が、インターネットによって、大きな社会的批判にさられている。

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