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佐野氏問題の先に考えること


佐野氏問題の先に考えること

 20世紀は組織の時代であった。国家は軍備を拡張し、企業は自己資本率を高め、ライバルの組織と戦った。近代社会では、特別のスーパースターでなければ、個人は、組織の一員としてのみ評価された。国家は別の国家と世界戦争を行い支配地域を拡大し、企業は企業買収によって勢力を拡大していった。しかし、そういう方法論は終わっている。なぜなら、物理的な世界には限界があるからだ。戦後のダイエーはがむしゃらに組織の規模を拡張したが、やがて破綻した。イオンもユニクロも、20世紀の方法論のままであるなら、やがて同じような壁にぶつかるだろう。

 さまざまな業種に大企業が生まれ、個人の才能も、業界という組織の中で活動の自由が保証された。それは、世界が、まだ無限に広いものだと信じられていたから、自分たちの城を作って、自分たちの掟や作法を築いていけばよかった。城が権力の象徴であり、尊敬を集める権威となった。それが、20世紀の文化でもあった。

 しかし、インターネットが登場した。インターネットは情報の海であり、それは無限の海である。城を作っても、何も力にならない。そして、その海の中から、これまでの組織の方法論に頼らない、新しい細胞が無数に生まれてきた。

 Airbnb(「エアビーアンドビー」2008年8月創業)は、個人が宿泊施設を提供し、個人が直接、連絡をして利用する。これまでのホテル業界の組織的秩序が崩されようとしている。インターネットを活用した都市型民宿である。ホテル業界の洗練されたホスピタリティスというものが、無意味になっていく時代がはじまっている。やがて結婚式場もイベント会場もスポーツ施設も、同じような流れになるだろう。レストランのようなものも、「我が家の夕食」に他人をご招待するというようなことが起こりうるだろう。

 Uber(「ウーバー」2009年3月創業)は、個人の自家用車を持つドライバーを登録し、スマートフォンで乗客がリクエストすると近隣の車が配車されるサービス。タクシーは、お客を探すために、客の乗せていないタクシーで都市を流さなければいけない。これは、とても無駄な行為である。Uberが完全に普及すれば、車を流すことなく、最寄りの家の自家用車が使えることになる。

 Airbnbも、Uberも、世界中で展開がはじまっているが、どこでも、旅館業法とか、白タク禁止法とかの、旧来の法律とぶつかっている。これらの法律は、20世紀の組織の時代の方法論の権化であり、業界秩序と消費者の安全を守るために成立していた。当然そこには、業界利権もへばりついている。

 日本は、戦後社会の中で、あるいは近代という時代の流れの中で、さまざまな業界を村のように作ってきた。そのことによる成果は、雇用の確保や消費者に対するセーフティネットの役割など、あるだろう。古い秩序が、なかなか新しいシステムに移行しずらいのも、日本の特徴である。しかし、2020年に東京オリンピックがある。インターネットが本格的に普及して、世界からの来訪者は、インターネットが生活にしみこんだ人が多いだろう。そうした人たちは、宿泊施設は、Airbnbを使おうと思うだろうし、タクシーの手配はUberほ使おうとするだろう。その時に、日本の古き業界因習で、インターネットのサービス・システムが使えないとなると、日本は世界に恥をさらすことになる。なんたるインターネット後進国だと言われるだろう。Wi-Fiのフリー化を含めて、東京オリンピックは、日本の現状の諸問題が問われるイベントなのである。

 1964年の東京オリンピックの時、それまで新宿の歌舞伎町におおっぴらにいたヤクザが排除され、乱雑だった道路事情の上に高速道路が作られた。2020年東京オリンピックは、情報インフラの上の諸問題を、一掃する契機にもなるのである。

 組織の時代は、組織が個人を守る時代でもあった。しかし、組織に守られることのない、自立した個人の時代が、21世紀の人類の新しい段階でもあるのだ。ここしばらくは、古い組織論と新しい個人論との間で、ギクシャクした動きが続くのだろうが、時代の流れは、組織や業界を守ることてはなく、一人ひとりの個人の自由を拡張していく時代にうつろうとしている。

 20世紀は組織と組織の戦いであったが、21世紀のはじまりは、組織と個人との戦いになる。 Airbnbも、Uberも、主役になるのは、管理された業界のプロでも斯界の達人でもない。普通の家の生活者や、普通の個人の運転手である。インターネットとは、情報の海であり、ここには物理的な範囲の限界というものがない。城を作って個人を囲い込むのではなく、城から出ていく個人が、自由に別の個人とつながっていく時代がはじまろうとしているのだ。

 佐野氏問題の底流に流れているのは、古い組織や業界の矛盾に対する、新しい個人の側からのプレッシャーであろう。

 デザインや編集の世界では、ソーシャルワーキングが登場している。日本では、ランサーズが有名だが、イラストレーターやテープ起こしの仕事をしたい人と、発注者を直接つなぐサービスだ。旧来の業界の人間からは評判が悪い。イラスト1点500円とか、コラム原稿1本300円とか、そういう値段で仕事を引き受ける人がいたら、プロの仕事はあがったりだからだ。僕も使ったことがあるが、ロゴの制作が3万円ぐらいだった。

 こういう時代背景の中で、佐野氏の問題が起きた。それは、日本最高水準のデザイナーであれば、それなりのクォリティと労力をかけるのが当然だと思っていたのに、コピペである。それだったら、ランサーズに頼んでも同じではないのか。にもかかわらず、ランサーズに頼む金額とは比べ物にならないほどの報酬を受け取っていたことに、怨嗟と非難が集まったのだろう。佐野氏は、自ら、プロの人たちの仕事に対する情熱とプライドに冷水を浴びせてしまった。

 デジタル技術は、効率化を追求した、中抜けの技術である。かつての印刷は、写植、製版、刷版という段階を踏んで、それぞれの職人たちと業界があった。デジタル化によって、これらプリプレスの段階は技術としても業界としても中抜けされて滅びた。おかげで、印刷コストは、ここ数十年で劇的に下がった。デザインやライティングの世界でも、ソフトウェアの進化と、AI技術の発展で、いわば「個人の経験」を中抜するような、システムが生まれつつある。こういう時代だからこそ、表現者は、古い業界の権威にしがみつくことなく、人間にしか出来ない表現を本気で目指すべき時なのではないのか。

 また、広告代理店の世界にも、大きな変化の波が押し寄せている。媒体の取扱についても、すでに、雑誌媒体とクライアントを直接結びつけるようなシステムが生まれている。代理店が媒体設計をする必要がなくなってくるのだ。電通も博報堂も、21世紀になった時に、「マーケティング局」を廃止してしまった。しかし、アメリカでは、企業に対して、商品開発から物流システムまで構築する、総合広告代理店の胎動がはじまっている。

 1990年代に、博報堂は素晴らしい社内チームを作った。それは「21世紀委員会」というようなものであった。博報堂の経営陣の、営業担当、総務担当、クリエイティブ担当、財務担当などの各担当役員が、自分の部署でこれはと思う人材を推薦し、社内横断的なチームを作り、潤沢な予算を与えて、21世紀の広告代理店のあり方を1年かけて研究させたのである。これであれば、おそらく、この委員会の同窓会が継続的に仲間意識を持つようになる。そこに、僕も、呼ばれて、レクチャーさせてもらったことがある。

 僕が言ったことは、広告代理店は「代理」である限り、ネットワーク社会の中ではやがて中抜きの対象となり、滅びる。広告主体店になるべきだというようなことと、組織や企業の代理ではなく、生活者個人の側の代理店になるべきだというようなことを話したと思う。その時は、漠然としたイメージだったが、Airbnbや、Uberみたいなものが、21世紀の、個人の側の広告代理店の姿なのかも知れない。部屋を貸したい個人、タクシードライバーをやりたい個人をクライアントにして、システム的に顧客をつなげる業務だからだ。「組織」の側ではなく「個人」の側の広告代理店は、今後、更にいろんな領域に展開していくだろう。

 広告代理店は、戦後の高度成長と消費の多様化の中で発展してきた。それは「大量生産・大量消費」という豊かな時代を構築するための過程の中で意味があった。すなわち「大量生産・大量広告・大量消費・大量破棄」という、20世紀型の経済システムに合致したのだ。しかし、このベクトルは衰退していく。少なくとも先進国日本からは消えていく。「必要生産・必要消費」へのベクトルの構築が社会的に必要になっており、それを保証するインフラシステムとしてのインターネットがあるのだ。

 もうひとつ、公共事業についても書いておかなければならない。現在、日本の最大の産業は、公的事業だろう。年間100兆円に近くなった国家予算のうち、公務員及びみなし公務員への人件費や管理費が半分としても、残りの50兆円近くが、公共事業として使われる。景気が衰退しリストラに苦しんだ企業は、景気が回復したとしても、かつてのバブル時代のように、広告宣伝費に大盤振る舞いするようなことはしない。大手広告代理店でも、公共事業費の獲得が大きなテーマになっている。公共事業のうち、建設や設備投資のようなゼネコンや設備メーカーが多くの税金をもっていくが、ソフトウェア的な領域においては、電通と博報堂が大きな予算を獲得し、あとは、金融系シンクタンク、大手人材派遣会社が仕切る。オリンピックは、国家による最大規模の予算が組まれるので、予算獲得のために、あらゆる方法がうごめいているのだろう。

 日本各地に、さまざまなNPOがあり、地域やテーマに密着した公共的な活動を推進している。これらの諸団体に公的資金が使われる時、元請けとして、大手広告代理店、金融系シンクタンク、大手人材派遣会社が仕切る。自民党政権が復活して、この体制はますます強固になった。それは、民主党時代に「コンクリートから人へ」というスローガンの元に、国家予算が、直接、多くのNPOなどに配分された。しかし、東北大震災の復旧支援で、いくつかのNPOの不祥事が起きたように、トラブルが多発した。しっかりとした体制が出来ているNPOである以外は、経理処理体制の不満足な団体が多く、報告処理がズサンなケースが多発したのだ。実際、大震災の復興で現地にはりついて活動していたNPOにとって、予算の処理報告をしている余裕もなく、人材を割くことも出来なかったケースも多かったと思う。その事態に激怒した金融庁が、国家予算を、小さく未熟な団体に直接支払うことを嫌がり、組織的に専任の経理処理部署を持っている大組織を元請けにしたのであろう。

 かつては、国家予算の発注書類があれば、その書類を保証として、地元の信用金庫などで資金手当てが出来た。しかし、民主党政権の頃から、そういう書類では地域の金融機関は融資をしなくなった。貸出しをしたNPO団体が、作業終了の報告書と支出書類の不備で、資金の執行がなされなくて、銀行への返済が滞ったケースが増えたのである。

 この構造の問題は、大きな問題で、地域やテーマに根ざした志のあるNPO活動は、これからの社会にとって重要度を増すが、国家予算とNPOの間に元請け的大手組織が介入すると、現場に届く予算が減少し、行政との直接のコミュニケーションもしずらくなる。NPO同士が連携して、元請けになりうる、自主的な経理組織を立ち上げる必要があるのではないのか。

 2020年、大歓迎しようが大反対しようが、確実に、東京オリンピックが開催される。開催されるのであれば、このイベントを最大限に利用して、多くの市民、多くのNPOが、具体的に何をすべきかを探るべきだろう。国家と大企業にまかせていだけでは、2020年以後も、現在の状況と変わらない日本があるだけだ。まずは、現在の問題を深く理解し、あるべき社会の姿を、一人ひとりが2020年以後の日本の姿をイメージすることが大切かと思う。

 オリンピックは、かつて国家の威信をかけたイベントであった。1984年のロサンゼルスオリンピックの時に、国家の手から離れて、民間企業のスポンサードによる運営費獲得が大きなテーマになった。スポンサーは世界に市場を求めるグローバル企業である。ロスのオリンピック以後、世界の秩序に影響を与えてきたのは、グローバル企業である。そして、リーマンショックによって、その方法論も破綻した。東京オリンピックは、歴史の新しい展開地点になりうるのである。それは、国家やグローバル企業の主導による世界秩序ではなく、一人ひとりの個人の、すなわちソーシャルな個人の動きが重要になってくる時代の本格的な幕開けの儀式になりうる。2020年東京オリンピックは、はじめてのソーシャル・オリンピックになりうるのだ。

 国立競技場の建設問題やエンブレムの問題が、これだけ多くの人の注目を集め、国家や大組織の意図する通りにならなかったのは、東京オリンピックに市民が求めているものが、彼らに楽屋裏の談合で物事を進めさせないぞ、という暗黙の意思表示のように思えるのだ。

 時間は流れていく。僕たちは、それぞれの現場で、やるべきことだけを追求していくしかないだろう。

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