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周平弟子との対話★時代質問箱(8)●師と弟子


周平・弟子に昇格させていただきありがとうございます(笑)。師と弟子、という関係は、それこそ数万年前からあったと思いますが、21世紀に入ってもなお有効な関係性でありつつ、何が昔と変わっているんだろう、ということに興味を持っています。師に出会う確率が増えたのか(Web上でヒマラヤに住んでいる師匠に教えを受けることができる、といったような)、逆にほんとうの師に出会える可能性は下がったのか。あるいはWeb全体が師である、という考えもありうるし、身体があるか無いかは大きな違いなのではないか(AIの議論でもこの切り口は出てきます)。また組織内での師と弟子(職人集団や宗教組織など)も変わってくると思います。宗教の次のカタチ、というもののヒントもあるような気がします。バラバラと投げてしまって恐縮ですが、どうお考えでしょうか?

橘川・50歳までの人生と、50歳以後の人生では、いろいろと価値観が変わってくる。日本人は長い間、人生50年だった。多くの人間がここまで長命になるというのは、ここ50年ぐらいの出来事。50歳までが現役時代だとすると、現役の時代には、みんなが同じ時代を生きている感覚なので、先輩と後輩はあるにしても、師と弟子という関係はない。誰もが、同じ問題や課題に直面しているわけだから、同志であり仲間であればよい。

 人間の成長は19歳ぐらいまでで、脳細胞の分裂は45歳ぐらいで終わると言われている。45歳ぐらいまでは新しい発想が生み出せるが、それ以上は、かつての経験を組みわせたり、展開させるだけになると思う。だから、逆に「一方的に自分の経験を語る」という師の立場も許されるのだと思う。

 宗教という教育問題について言うと、シャカとかキリストとか孔子とか、紀元前後の同じくらいの時代に生まれている。それから2000年以上経っているわけだから、普通の科学で言えば、情報の蓄積はものすごいものだから、シャカやキリストの理念以上のものが生まれても不思議でないと思うのだが、たいして進歩してるとは思えない。科学は、直線的に進むから昨日より明日の科学が優れているとなる。ただ、ソフトウェアとしての思想や哲学は、直線的には進歩しない。内面へ内面へ螺旋状に食い込んでいくものなのだ。

 2016年になって、シャカやキリストを超える思想が現れないのは、それが、もう必要ないからではないか。あとは解釈する人がいるだけで、人類は、その時に、何かの確信を持ったのだと思う。その確信を、僕たちは日々の生活の中で反芻しているだけだと思う。

 20代の頃に書いた原稿で「シャカを見るな、シャカの見たものを見よ。キリストを愛するな、キリストの愛したものを愛せよ」と書いたことがあるが、人類は、その時点で、大切な結論を一度、得たのだと思う。ただ、それを自分勝手な解釈をしたがったり、分からないふりして人を混乱させようとして、争いを作ってきたのではないかな。

周平・橘川さんにとって宗教ってなんですか。

橘川・友だちです。これも70年代のロッキグオンに書いた言葉だけど、「師は仲間(グル)なり」という言葉があるよ。

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