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2-3.今時の天才●ロッキングオン1978年7月号掲載


 天才とは情報流通機構のモンダイなのです。世界が大まかで、あっちこっちで好き勝手に暮らしていた時代は、人と人の間も過疎であったから、どこで誰が何を目指そうと、どこで誰がくたばろうと、ひとりの個人は感知する手段も術も持たなかった。それこそ〈歴史上の出来事〉でしかなかったわけだ。芸術と呼ばれていたものも、天才とか努力家が一所懸命にがんばって作品を仕上げたとしても、その国の人々に届くのでさえ途方もなく時間がかかった。よく、天才は死後に発見される、といわれたが、それは単に作品流通機構の不備によるもので、作者の生きている間に作者の問題意識と出会えなかった受け手も不幸だが、死んでから自分の言いたいことが伝わった本人も喜劇的に不幸だ。

 人間の個性は、人と人との関わりの中で、あるいは人とモノ(=正確にはモノに潜んだ人)との関わりの中で、自分で育てあげるものだから、個人が最初から持ってる特質、例えば、足が速いとか力が強いとか指が器用だとかIQが異常に高いとか感性がナイーブだとかいうのは、体質というべきで、それだけでは別にどうということのないものだ。要は、その体質を駆使して、自分を自分でどのように育てあげたか、普遍性を獲得したか、だから。典型的な美人というのが何となく不愉快なのは、先天的な体質にしかすぎないものに自信を持っちゃってるからです。

 あなたは料理人であって素材ではない。あなたは橘川幸夫という名の自動車ではなく、橘川幸夫という名の自動車の、運転手だ。(自分の名前をいれてみい!)

 どんなに速く走れたって自動車にはかなわないだろうし、どんなに記憶力が良い人だってコンピュータの記憶容量にはかなわないだろう……といったあたりから、この世の〈天才〉は死滅したのだ。オリンピックは、人間の人間に対するノスタルジーである。いくら速く走れたって高く跳べたって、ぼくらの実際の生活とは関係がなくなっている。人間の先天的な特質は機械が代行するから、後天的なものにだけぼくらは力を注げば良いのだろう。個人のできることなんて社会的にはもはやタカが知れてるのだから(だのに、あなたは今になって、優秀な機械になろうとしたり素材であることを誇ろうとしたり、バカみたいなのだ!)。

 それと、他人が、ちょっとスゴイことやったり言ったりすると、即、あれは天才だ、って言いたがる人がいるけれど、ぼくらは結ばれ継がれているわけだから、その〈スゴさ〉というのは、実は、自分の内部にあったものだ、ということに気づけば良いと思うんだ。あれは天才のやることだから、と言ってすましてしまうのは、ズルい言い方なのだ。自分の内部にうずまくパワーを発見しようとしないものが、やたらと天才をでっちあげるのです。

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