端境期の編集事情(2)メタチャット考・もっと編集で遊ぼうぜ!○橘川幸夫
ネットの世界は、まずは米ソの核戦争の危機があり、米国本土に核爆弾が投下されると、スター型のホストコンピュータのシステムでは、ホストサーバーが打撃を食らうと通信システム全体がダウンしてしまう恐れがあった。そのために、分散型システムの開発をアーパーネットが進めた。それで、まずは、アメリカの大学や研究所が回線でつながっていくのだが、そのインフラの上で始まったのが、コミュニケーション。データベースにアクセスしあう世界の研究者同士が情報交換をはじめた。そこで出来たのがBBS(掲示板)だ。この辺は、学校で教えてくれること。
使えるものは何でも使えというのが、生命力のすさまじいところだ。1983年頃、僕の事務所に、電電公社の漢字テレックスが来て、アメリカのダイアローグなどのデータベースにアクセスを開始。カプラがギーガーとなっていた。滑川海彦が中心になって、オンラインデータベースが何なのかの実験のような遊びのようなことをして、それについては、東洋経済から「データベース」という書籍になった。1円で売ってるよ。
さて、そのあたりで、まずNYにいたアスキーの今泉洋(現在は武蔵美の教授)が帰国して、アスキーネットを立ち上げた。その後、PC-VANやニフティサーブや日経Mixなどのさまざまな商用BBSが生まれた。一方では、日本各地に草の根BBSが無数に生まれた。オンライン・コミュニケーションの創生期である。
この辺の事情については、これまでにも書いてきたことがあるので、省略。それで、僕も事務所のパソコンで、1990年に、BBSを開始。シスオペは僕には出来なかったので、それまで使っていた草の根BBSのWENETで知り合った亀山雅之くんに頼んだ。亀山くんは、マザーのプログラミングを担当した優秀なエンジニア。集まってきたのは、編集者、マーケッター、エンジニアなどで、みんな優秀な能力とセンスのある奴ばかり。BBSの名前は「CB-NET」。コンセプトバンク・ネットである。
その頃、ニフティサーブの掲示板に「橘川幸夫です。僕の名前知ってる人、連絡ください」とアップしたら、元日経BPの斎野亨が連絡してきた(笑)
僕の方は、そこで、いろいろなコンテンツ開発実験を行っていた。現在のTwitterにつながる「メタ日記」もやってた。「九龍城」という、メンバー一人ひとりに部屋を渡して、好きなことをやってもらったりした。すべてテキストベースだ。
そこで発案したのが「メタチャット」。チャットはチャットで、「5W1H」や「753俳句」など、いろいろな遊びをテストしていたが、実用的に考えたのが、メタチャット。これは、二人、もしくは複数で、書きかけの原稿を転送し、そこに新しい発言を書き込んで、更に転送するというものだ。
1991年ぐらいだと思うが、集英社の「すばる」という雑誌で、大阪在住の村上知彦との対談を、メタチャット方式でやった。こちらが、原稿。
巻末に「processed on META BRAIN 2」とあるが、当時の文芸誌の編集者には珍しくシステム好きの釣谷一博さんが、つけてくれた。このシステムは、対談でも鼎談でも座談会でも、いろいろ応用ができて、当時、いろんな実験をやっていた。
それで、この方式はインターネット時代になっても、いろいろ使っている。デメ研創業以來の盟友である、フレンドリーラボの後藤裕文くんに頼んで、メタチャットのシステムも作ってもらった。これは現在、停止しているが、以下の案内を読んでもらえれば、想像はつくだろう。
有限会社フレンドリーラボ 対談原稿作成支援システム a.k.a. メタチャット
このシステムを使って、BPオンラインの対談原稿をたくさん作った。
一部、noteにまとめてあるから、見てください。
表面的には、普通の対談と変わりがない。
もっと、編集を遊ぼう。ネットの世界だから、もっと、ネット的な編集技術が開発されてしかるべきなんだ。単に、情報集めてアーカイブ、なんてことでは、つまらなくはないのか。
このシステムは、実は、70年代にロッキングオンの編集をしている時に、対談してテープ起こしをするのが面倒だから、渋谷と松村に交互に原稿用紙に発言を記入してもらって作った渋松対談の時からの、橘川のメソッドである(笑)。
編集長諸君、ネットの使い方は、まだまだ未成熟。システムをいじくるだけがイノベーションではないよ。
こんなこともやった。
なお、橘川幸夫の活動報告、最新の動き情報は、こちらのメルマガに登録してください。無料です。
橘川幸夫の無料・毎日配信メルマガやってます。https://note.com/metakit/n/n2678a57161c4