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参加型社会宣言(1)WELQの問題と、参加型メディアの未来についてのMEMO

1.オールド・メディアの嘆息

 先日、久しぶりにオールドメディアのラジオに出演した。ラジオの生番組は、リアルタイムのスリリングな面白さがあるのだが、その分、発言内容のリスクも抱えることになる。最近の放送界は禁止用語が増えたそうだ。それらは法律行政的な規制ではなく、局の側の自主規制である。何かの発言にクレームが来ると、その言葉が局にとっての規制語になっていく。まるでクレーマーに怯える役所のよう。

 それでもかつてのテレビやラジオは、タケシから太田光や有吉弘行まで、傍若無人に言いたいことを言ってのける芸人たちの人気は高い。しかし、実際は、言葉狩りの自主規制の網はせばまっているのだと思う。

 規制は更に強くなるだろう。これまで電波は流しっぱなしで、たまたま聞いていた人がクレームをつけるぐらいだったが、radikoやTVerが登場して、一週間分のタイムライン視聴が可能になり、便利にはなったが、放送局側では、クレームにさらされる危険が増大したからだ。

 かつてメディアの世界は、非日常的な空間であり、いわば「旅の恥はかきすて」みたいな意識で、タレントは非日常的な発言や態度で人気を得ていた。しかし、アーカイブされることによって、通行人の戯言ではなく、じっくりと付き合う日常の一部となっていく。無責任に語るから面白いのに、その無責任さに責任を追求するような視線が集まるようになる。ますます、萎縮し、建前だけの、つまらないものになりそうだ。

2.キュレーション・メディアとダ・カーポの違い

 一方で、ネット・メディアは、元気に、いい加減な情報を振りまいている。ネットは、個人が情報発信する場なので、ある個人の正義しかなく、標準的な正しさがない。ネットでは、正しい情報よりも面白い情報の方が、広く伝わる。ネットを見ている人間も、正しさよりも面白さを求めているからだろう。

 そういう混沌としたネット世界の中で、キュレーション・メディアが登場した。ネットに散逸している情報をまとめて、ひとつの情報にしようとする動きである。出版界にはかつて、ダ・カーポ(マガジンハウス)という雑誌があり、さまざまな雑誌の面白い記事をまとめた雑誌だった。ダ・カーポは新幹線の中で読んでるサラリーマンが多かったが、今はなくなった。現在では、新刊書籍の読みどころダイジェストにした雑誌が、会員制組織で確実な顧客を掴んでいる例がある。

 ダ・カーポは、マガハの編集者たちが、厳選してセレクトしたものなので、読んでても編集の流れがあり楽しいものであった。しかし、ネットのキュレーションは、人間の意図がない用語的な選択でまとめられたものが多く、こういうメディアは、AIの進歩によって最初に駆逐される輩だなと思う。むしろ、AIが登場する前に、火事場泥棒的なマネタイズを狙っているのだろう。

3.WELQの問題

 WELQ(運営:DeNA)の問題は、ネットメディアの現状の問題を明らかにしながら、未来に向けてのネットメディアを考える上に最適な問題でもある。

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