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「Blendy特濃ムービーシアター」について

AGF(味の素ゼネラルフーヅ株式会社 代表取締役社長 横山 敬一)は、「〈ブレンディ〉ボトルコーヒー ミルクひろがる 挽きたてカフェオレ」のプロモーションの一環として2014年11月26日(水)に、「Blendy特濃ムービーシアター」を発表しました。(制作は、電通と葵プロのグループ会社であるWASABI)

 AGFのブレンディボトルコーヒーの広告ムービーが問題になっている。1年前に公開されたものだが、今年の9月に「スパイクス アジア 2015」というシンガポールで行われた広告のコンテストで銅賞をとり、その英語版が流れて外国で問題になり、日本にも伝わってきたという経緯らしい。

 WEB広告なので一般家庭向けCMとは違うようだが、一度見て、気分が悪くなった。高校生を牛にみたてて、不良は屠殺場、巨乳はブレンディへという構図が、社会への皮肉ではなく、素直に表現されていることに不快を感じたが、それは、僕個人の感じ方であり、それを他の人に強要するつもりはない。ただ僕は「ひでえ」と思っただけである。

 ネットでは、「気持ち悪い」という意見の他に「表現の自由」という声もあがっている。僕が「気持ち悪い」と感じたのは、表現内容もそうなのだが、こうした映像を喜々として作っているスタッフたちや発注者の企業に対してである。

 表現だけを見るならば、人間を奴隷のように扱った作品はたくさんあるだろう。沼正三の家畜人ヤプーや、チャプリンやモンティパイソンなどにも、管理社会に対する皮肉を込めたパロディがある。それらの作品を、ブレンディ広告とを同一線上で語ることは出来ない。ブレンディ広告は、製作者自身の表現ではなく、企業の広告表現であるのだから。

 文芸作品であるなら、読みたい人は、自分のお金で購入して作品を選択することが出来る。しかし、コマーシャルは、受け手の意志とは無関係に、企業の力で一方的に配信されるものである。今回のはWEB作品であるが、これが、一般家庭向けに放送されたら、どんな反応が起こるか、味の素の担当者は想像出来ないのだろうか。

 広告業界がおかしくなっているのではないのか。サントリーの佐野氏による剽窃問題と同じような危惧を、ブレンディ広告に感じた。社会性を勘違いしている未熟な広告クリエイターたちが、仲間内で面白がってプランニングして、学園祭のりで広告を制作する。企業の担当者も、何が本当のクリエイテイブなのかを分からないまま、提案者の背後にある広告代理店の権威を信用し、広告業界で評価の高いクリエイターというブランドだけで企画を決定してしまっているのではないのか。

 サントリーのトートバッグの剽窃問題の責任はサントリーにあり、ブレンディ広告の責任はAGFにある。企業の法務部は権利関係や訴訟リスクに対して、石橋を叩いても渡らないというほど慎重である。イメージ戦略に対しても、大きな予算を割いている。こうした企業の姿勢と、広告部の担当者のマインドが一致していないのではないのか。前任者が決めた広告代理店が用意したお膳立てにのって、宴会しているだけではないのか。

 確かに、広告においても、クリエイターの内的欲求と、クライアント側との意向との確執というのはあり、それを調整しながら、自分の表現意欲に即した広告作品を作っていくことが、広告クリエイターたちの手腕であったと思う。そういう緊張感の中で、多くの優れた広告作品が生まれてきた。その緊張感がブレンディ作品には感じられない。何も考えていないで企画が流れている感じがするのだ。

 駄目だしをする編集者がいるから作家は、悔しいと思いながらも、編集者をうならせる作品に仕上げてくる。そうした、緊張感が、日本のクリエイティブの世界から消えているように思う。僕が一番、危惧するのは、クリエイター側の問題ではなく、企業の広告広報の担当者の側の問題である。予算を切り詰めることしか頭になく、どうやったら予算を最大限活かした、自社のコンセプトとアイデンティティを社会に提示する広告表現が出来るかを、企業の立場で真剣に考える風土が消えているのではないのか。

 オリジナルなものづくりのマーケティングから、作ったものを販売するセールスプロモションまで、一体化したところで戦後の高度成長は起きた。それらがバラバラのまま、組織だけが水膨れになった日本の企業の姿をイメージせざるを得ない。

 インターネットの時代になって、広告は、新しい次元に突入していると思う。ネイティブ広告という言葉が語られているが、まだ、本当の意味でのネイティブ広告は実現していないと思う。広告の手法も変わるし、受け取る側の意識も変わる。

 電通は「広告小学校」という広告リテラシーの普及事業を行っている。

広告小学校

 10年ほど前に、この企画が動き出した時に話を聞いたことがあるが、とても素晴らしいものであった。世界の広告文化を研究している女性研究者が、電通の論文コンテストに応募して採用された企画だったと思う。情報化社会は、誰もが簡単に情報を収集することが出来るが、逆に情報を評価したり判断したりする能力は落ちている、という認識があった。広告というのは、誇張や極端化によって、耳目を集めるものであるが、あまりに素直に情報を受け取ってしまわれると、逆に、広告制作の側からすると困るので、子どもたちに、広告表現の仕組みを教えたい、というような意図を聞いた。小学校で、子どもたちに、実際の広告を見せて、どのように「誇張」しているか、どのように「裏の意図」を込めてあるかなどを解説する。その後の展開で、どうなったかは分からないが、やりたかったことは、電通のクリエイターを派遣して、子どもたちがプランニングした、自分の小学校の「広告」の制作指導までやりたいと言っていた。

 その女性研究者の話によると、イギリスでは「広告リテラシー」が正規の授業カリキュラムの中に組み込まれていて、その授業は「広告はすべて嘘である」ということを教えるためのものであるということだった。そこまで過激ではないが、広告とは何かを子どもたちに教えることは大切なことだと思う。

 ブレンディ広告を見て、「広告小学校」が必要なのは、むしろ、企業の広告担当者ではないのかと思った。広告は、消費社会のひとつの文化である。文化である限り、古きものを継承して、新しい挑戦をしなければ、腐敗してすたれる。文化がすたれれば、人間もすたれるのである。

追伸

ということで「メディアの未来を考える会」が出来ましたが、「広告の未来を考える会」も作りたい気分である。


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