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書評「経営者」(永野健二・著 新潮社・刊) ISBN-13 : 978-4103505228

1.批評の復権

 永野健二さんから新刊「経営者」を送っていただいた。永野さんが「日経ビジネス」の編集長時代に知り合い、本誌に連載させていただいたこともある。永野門下の日経の編集者たちとも親しく交流させていただいている。僕とほぼ同じ年代の団塊世代であるが、永野さんは日本の政治・経済のど真ん中を生きたのに対し、僕は、草の根のサブカル領域やソーシャル領域で動いてきたので、共通の体験はあまりない。しかし、なぜか、お会いすると心に通じるものがあり、それは何なのだろうかな、と思っていた。

 本書を読み始めて、何か、懐かしい読書の体験だなと感じた。それはすぐに分かった。この本は、事業に成功するための指南術でも、スキルアップのためのビジネス書でもない。むろん、戦後の経営者の実態を暴露するスキャダル本でもない。これは、一冊の文芸批評の書だと思った。学生時代に、平野謙、磯田光一、桶谷秀昭らの文芸批評家の本が好きだった。それは、対象とする近代文学の作家よりも、批評家の方が幾倍、魅力に感じていた。一つのものを表現することよりも、表現されたものを、さまざまな角度から「見る」ことに、僕は方法論的な魅力を感じていた。もちろん、吉本隆明、谷川雁、埴谷雄高などの批評文書にも没頭し、その文体に興奮していた。さまざまな角度から表現を見ること、そして、たった一つの凝縮した言葉で断言すること、そうした批評的行為に魅了されていた。

 80年代以降、僕は文芸書は読まないし、文芸批評的なものも読まない。自分を誘惑するような批評的書籍が見当たらない。文学の衰退は、情報化社会の推進による、表現の多様化により、時代の最先端の才能と感受性が、小説表現だけに向かわず、さまざまな領域に分散したからだろうか。それもあるだろうが、多様な批評的精神が、80年代バブル以後に日本人から失われていったという実感が強い。書籍すらPOSデータで評価が決まるように、批評家が対象と一対一で向かい合うような風景が失われてきたのではないか。

 そうした永き空白感の中に、「経営者」は久しぶりに批評の精神を思い起こさせてくれた。戦後を形成した、さまざまな企業経営者の、行為や精神について、客観性と主観性を合わせて、つまり批評精神として向かい合っている。これは、すでにジャーナリズムの範囲すら逸脱しているのかもしれない。

 著者の一貫した問題意識としてあるのは、渋沢栄一資本主義が、アメリカ化、情報化していく日本社会の中で、どのように継承されていくか、ということだろう。渋沢資本主義とは、企業の成長と社会の安定を、どう融和させていくかという、経営者が経営者の視点を超えた世界観に到達する道である。渋沢栄一が、自分が自分の企業の成長だけに集中していれば、三井や三菱を超えた企業体を作れたという自負を語る場面が、本書にあった。

 資本主義を生き抜く限り、まず自社の成長が第一である。しかし、その成長の過程の中で、経営者本人の人間的成長がなければ、その企業の永続的な成長はないのだろう。豊富なジャーナリストとしての取材活動で得た、経営者の生の人間性を感じさせるエピソードが無数に出てくる。聞いたこともない話が、それを話した時の経営者の表情さえ見えてくるような見事な文章で語られている。

2.父親としての戦争体験

 僕が学生時代に戦後批評家の本を読み漁ったのは、自分の父親の世代に向かい合いたかったらである。父親の世代は、戦争の当事者である。近代戦争という、すべての国民が前線に向き合わざるを得ない環境の中で過ごした日々は、戦後に生まれた僕たちにはとても想像がつかなかった。戦後文学とは、広い意味での戦争体験文学であり、戦争の記憶が薄らいでいくにつれて、書く理由を失った文学は衰退し、その精神の空白エリアに消費文化生活が流入していったのだと思う。シベリア抑留から生還した石原吉郎の言葉は、読むものの心にシベリアの冷気を送り込んだ。あの読書体験を、どうやって引き継げばよいのか、20代の僕は戸惑っていた。

 本書に登場する魅力的な経営者である、中山素平、永野重雄、豊田英二、中内功らの巨星もまた、戦争体験者であり、著者や僕の父親の世代である。彼らの戦後社会での生き様は、それ自体が文学作品であり、永野さんには、一人ずつ、1冊の本にしてもらいたいくらいに輝いている。しかし、その輝きの裡には、戦争体験という絶望状況が魂の奥底にあったのだろう。中内さんが、戦地の飢餓状況の中で、すき焼きを腹一杯食いたいと思ったことを、戦後の焼け野原の中で事業を起こしたモチベーションであったというエピソードは有名である。

 戦後社会は団塊世代が作ったという伝説があるが、僕は信用していない。戦後社会を作ったのは、父親の世代の戦争体験者であり、ここに登場してくるような人たちである。団塊の世代は、彼らが作った器に就職し、その器を膨張させるために努力したのであろう。

 父親の世代に次いで台頭するのが、日本マクドナルド創業者である藤田田、ヤマト運輸を大発展させた小倉昌男などの戦後焼け跡闇市派たちである。藤田田が、光クラブ事件で自殺した山崎晃嗣の盟友であり、資金繰りに困っていた山崎を藤田が無視したことが語られている。また、小倉昌男が、ヤマト運輸に入社する前に、人工甘味料のサッカリンを密造して、大量に販売したことが語られている。戦争で崩壊してた日本社会を、懸命に生きた世代のエネルギーとしたたかさを感じる。

 僕らには、戦争体験者に対する、否定と畏敬がいりまじった不思議な感情がある。だから、同世代の北山修が「戦争を知らない子供たち」という歌を発表した時、どうしてそういう表現をするのか分からなかった。それは事実だが、同時に、自らの体験に対する屈辱でもあったのだ。

 三島由紀夫が「我が世代に強盗諸君の多いことを誇りに思う」と言ったことがある。彼らの世代の強盗は、出来ごごろなどではなく、切羽詰まった本気の強盗だろうな、と思った。僕ら世代は、せいぜい、強盗ごっこでしかなかった。しかし、マスメディアは「危険な17歳」「狂気の19歳」と、自分の年代に合わせて発生した社会的事件に、きれいなレッテルをはっていった。

 本書でおおむね評価の高い経営者は、父親か長兄の世代であり、それは、具体的な戦争体験を芯にもっている人たちであろう。それに比べて、弟の世代に対しては、世間の評価に組みすることはない。特に、孫正義の危うさについては、この章だけでも立ち読みすることをお勧めする。

4.個人として

 僕は、永野さんとは対極の時代を生きてきた。僕は最初から個人であり、組織の先輩から継承されたものは何もない。20代の後半に、はじめてサラリーマンになった時も「ポンプ」の編集長であった。

 僕が継承してきたのは、時代の中の個人からである。僕は、その時代その時代の一番HOTな場所にいようと思った。69年には、学生運動の周辺にいて、70年になってからは、マンガとロックの世界にいた。バブルの時代は新宿の地上げ屋さんの事務所にいて、90年からは、デジタルの世界に身を置いた。その時代の一番HOTな場所には、その時代の一番感受性の高い、なおかつ無名の者がいたからである。僕は彼らから多くを学んだ。HOTな場所は、時代によって変わる。そこに居続ける者は、やがて、時代の流れから取り残される。

 人は変わらなければならず、それは生きる環境も変えていかなければならない。洪水にあって見捨てられた浅瀬の上で、いつまでも呆けて宴を続けているわけにはいかない。

 本書は、「日立・三菱重工業統合へ」という、幻のスクープ記事の話題から入る。頓挫した経営統合の話だが、実際、この統合が成立していれば、日本社会は大きく変わっていたかもしれない。著者の、もうひとつの重要な視点が「統合」である。経営者個人も成長し変節もし、やがて死ぬが、組織もまた、成長し衰弱する。それを持続させるための方法が統合である。成長過程の経営者の役割とは違う、成長の限界が見えた時の政治力と決断が求められているのだろう。単独で発展してきたようなトヨタ自動車も豊田英二の、トヨタ自動車販売(自販)とトヨタ自動車工業(自工)との合併劇を成したことで、その後の飛躍につながったのであろう。

 僕は、一貫して個人として生きてきたから、僕に師匠はいない。ただ、多大な教えを受けた先輩たちはたくさんいる。彼らは、生存中は、友達として付き合った。そして、僕より先に亡くなられた時に、彼らを師匠と呼んでいる。その人たちとは、すべて、メディアを通して知り合った。本書に出てくる経済安定本部(アンポン)からスタートし、豊田英二から、日本で本当の財団を作って欲しいと依頼されてトヨタ財団を作ったのは、林雄二郎である。僕は、彼の著作を読んで、手紙を書き、交流がはじまり、30年の歳月を友人として交友させていただいた。アンポンの話や、トヨタ財団以前の財団が、いかに政府官僚の天下り先にすぎなかったことを教えてもらった。林さんから「豊田英二さんは偉かった」と何度か聞かされた。日本のマスメディアの骨格を作った小谷正一も、僕が創刊した「ポンプ」という参加型雑誌を面白がってもらい、声がかかった。小谷さんの戦後の盟友であり、幻の社会思想家だと思っている山手国弘との出会い、僕の読者からの紹介であった。僕は、彼らから、多くの、時代の経験を学んだ。

 80年代から、マーケティングの仕事をし、多くの企業と付き合うことが増えた。活性化している企業には、かならず、活性化している個人がいた。僕は、そうした人たちと、友人として付き合ってきた。

 企業組織を作ることは、城を作ることだと思う。城を作り城下町を発展させることで、近代社会は拡大した。しかし、そうした方法論は、やがて限界に達するのではないか。城を作ることを「私」と呼ぼう。そして、「城」と「城」の間の空間を「公」と呼んでみよう。インターネットの普及によって、急速に拡大しているのは、「公」の空間である。「公」の空間には、城の殿様も家老も御家人も関係のない、無名の個人がいるだけである。

 僕が、最近、一番興奮しているのは、フランスの「Ecole 42」という学校である。ここでは、「先生がいない」「カリキュラムがない」「授業料がない」という画期的な学校であるが、3000人の学生数に対して、10万人近い応募があるという。応募者を「スイミングプール」と呼ばれる施設にぶちこむ。まるで泳げない子どもをプールに突き落として、はいあがってきたものを入学させるという虎の穴方式で選抜する。受かった学生は、プロジェクトを選んで参加する。プロジェクトは、最先端のもので、運営は参加者たちが委員会を作って決定される。

 この「42」に、パリにあるFacebookの3000人の研究者たちのうち、300人が生徒として入学し、プロジェクト授業に参加しているという。どういうことかというと、これまで、企業の商品開発やアプリ開発は、エリートたちを企業が採用して、城の内部にある開発室でプロトタイプを作り製品化していった。しかし、時代の次のフェーズに移っているのだ。企業の内部の開発者が、外の環境の中で、決して大企業には就職できないような、落ちこぼれやハッカーたちと、企業の未来を支える技術開発をはじめだしているのである。

 そして、「42」を作ったのは、フランスのハッカーのアイデアを、ザビエルニールという、インターネット・ビジネスで財を成した1967年生まれの富豪の資金によって、無料で最先端の学校が生まれた。

 ネットで調べていて、感動したのは、フランスの首相が「42」を見学している写真があるのだが、学生たちが、教室の床に寝袋で寝ている(笑)。みんな泊りがけでプロジェクトを進めているのだ。昔の雑誌編集部やベンチャー開発室なんて、どこもこんなものだった。こんなエネルギーのあるムーブメントが起きているのに、旧来の城型ビジネスモデルがかなうわけがない。

 人間は本来、働くのが好きな動物なのだ。マルクスだって「労働の喜び」を語ったはずだ。ただ、経営者の私欲のために、無意味な労働を強いられることが嫌なだけだ。自分の中の社会的欲求と仲間さえいれば、それを実現するために、最大限のエネルギーを発揮する。労働の喜びを射程にしていない「働き方改革」などの何の役にも立たない。

 「42」の動きは、シリコンバレーにも飛び火し実現した。噂では、ジャックマーが中国の4都市で開始するということも流れてきている。アメリカでもうひとつの話題の大学である「ミネルバ大学」(世界中を流浪する全寮制の大学)も、インターネットで巨額の資産を獲得した経営者が、設立した。

 日本では、上場に成功した経営者は多いけど、獲得した資金で、仲間内のバーを作るとかリゾートに隠れ別荘作るとか、あるいは、更に資金を拡大するための投資しかしないのではないか。「公」のために、すなわち、「子どもたちの未来のために」大胆な投資をする経営者が出てこないと、日本は、日大のように世間から、切り離されたところで栄華を満喫するだけの、引きこもりの社会になってしまう。

著者は言う「中山素平を考えることは渋沢栄一を考えることである。それは天下国家と経営は両立するかの問いに答えることでもある」

 それは、経営者だけではなく、すべての日本人が、今、考えてみなければならないことだろう。僕が学生時代に批評が好きだったのは、個人として全体に向き合っている姿勢が好きだったのだろう。組織から離れた個人としての永野健二のこれからに期待する。

経営者:日本経済生き残りをかけた闘い



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