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小さな学校「Heart party」について●(1)メディアの分水嶺

Heart partyについて

(1)メディアの分水嶺

 僕が最初にメディアに関わった1970年代は、メディアは黄金時代だったのかも知れない。大手出版社には、森羅万象の知識を持ち、広範囲の人脈と底知れぬ胆力を兼ね添えたスーパー編集長がいて、続々と大型雑誌を創刊し、新しい才能を見出して時代を切り拓く書籍を刊行していた。テレビ局にも、何もなかったテレビ文化の創世記を知るディレクターたちが成熟期を迎え、縦横無尽に映像文化をテレビ画面で表現していた。雑誌やテレビより以前の文化である映画や新聞も、自分たちの立場を強固にし、絶対的な自信を持って表現活動を続けていた。

 60年代に10代であり、70年代に20代であった僕は、そうしたメディアの黄金期の成果をまるごと受けて育った。育った中で、ある疑問が芽生えてきた。完成された表現、絶対的な自信を持って発信されてくるメディア事業者に対しての、ある疑念である。

 それは、1969年という時代に起きた。僕は大学で、文章を書くことが好きな友人たちと同人雑誌を発行していた。小説やエッセイなどを集めた文芸同人雑誌である。同人誌名は「アルカロイド」というタイトルで、これは、仲間の岡本くんがつけたものだろう。創刊号に僕が書いたのは「唐獅子論理」という、高倉健論であった。その同人誌を何冊か出した頃、世の中に「ミニコミ」という言葉が出てきた。なんとなく、同人誌よりミニコミの方が格好よくて、僕は編集長を引き受け「アルカロイド」をミニコミに変えていった。

 ミニコミは出していく中で、「同人誌とミニコミは何が違うのだろう」という疑問にぶっかった。同じように素人の原稿を集めて、印刷して配るという行為は同じである。しかし、両者には決定的に違う何かがあると思われた。

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