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追悼・手塚昭雄さん

追悼・手塚昭雄さん

 若い時に感じていた「死」は、観念的なもので漠然としていた。自分のことを自覚するようになった頃から、死は、常にまとわれつくアブのように時折、頭の周辺を飛び回る。それは、怖いものであったが、甘美な匂いも漂わせていた。

 50歳をすぎると、そうしたイメージは消えていき、より具体的な死と向かい合うことが多くなる。信頼し、大好きだった仲間たちや、肉親の死が日々の出来事の中に、次々と発生してくるからである。

 僕の場合は、メディアを通して出会った人が多いので、ある時期、ひんぱんに会っていたが、やがてそれぞれの事情や環境の変化で音沙汰がなくなった人も多い。

 Twitterで「粘土化粧品」の話が出ていて、そういえば、ボディクレイという粘土商品を開発していた手塚昭雄さんはどうしているだろうと検索してみた。2020年3月に亡くなったという情報があった。そうなのか。

 手塚さんは、僕より少し上だが、70年代は映像の仕事をしていて、ロッキング・オンの読者だった。岩谷宏が、キラキラ社という音楽劇の劇団を立ち上げて、その映像担当だった。ECD・石田義則くんも、山崎春美も、峰岸も、同じ劇団の仲間だった。

 手塚さんと再会したのは、それから10年以上経ってからだ。1991年に、仙台の加藤哲夫くんが、仙台でスピリッツ・オブ・プレイスという、エコロジーをテーマにした、大規模なイベントを開催し、僕も、スピーカーとして参加した。加藤くんは、カタツムリ社をはじめる前は、宝石の営業マンをやっていて、僕がやっていた雑誌「ポンプ」の熱心な投稿者として知り合った仲である。加藤くんが、その流れで「エコロジー事業研究会」を立ち上げたので僕も会員参加した。定期的に、日本中のエコ関係のビジネスやイベントのチラシをまとめて送ってくるという、ものすごい研究会だった。そのチラシ中に、手塚くんの粘土化粧品のチラシかよく入っていて、僕の事務所にも何度か遊びにきたりした。

 手塚さんの父上は、モンモリナイトという粘土の研究者で、世界中の粘土を調査研究していた。その粘土を使って、ダイナマイトのような商品を開発していた。プラスチック爆弾のように、粘土に火薬を練り込んで、破壊対象物に貼り付けて爆破するというものだ。

 手塚さんは、「そんなぶっそうな商品ではなく、もっと平和利用は出来ないのか」と、父親に問いかけたら「フランスでは粘土石鹸が人気だ」という話が出て、「それだ!」と思い、粘土化粧品の開発に着手したと言っていた。試作品だという、石鹸や入浴剤をたくさんもらったが、下水が詰まりそうになった記憶がある。そこから、いろいろあったみたいだけど、粘土化粧品は、今では、あちこちで販売されている。

 僕らは、メディアを通して、時代意識を共有することで、出会った。加藤くんは、2011年の東日本大震災の年になくなった。手塚くんは2020年のコロナ・パンデミックの年に亡くなった。みんなの死を抱えて、僕は生きる。そして、みんなの生を、誰かに伝えて、僕もみんなのところに行くので、よろしく。


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