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もうひとつのメディアについて

人が原稿を書く時には「何かについて書く」というところからスタートする。それはジミーペイジについて書くとか、ドラゴンボールについて書くとか。書く対象に対する愛情が書く動機になるのだが、どのような「何かついて書いた」原稿も、書かれた原稿には書いた人の想いや思考が現れる。

何かについて書いたつもりでも、自分のことを書いたことになるのだが、普通は意識しないだろう。70年代のロッキングオンが、「ロックについての雑誌」ではなくて、「それぞれ自分なりのロックを言葉でやるための雑誌」と、僕なんかは思っていた。そして、音楽の客観的批評から、どんどん離れていった。岩谷宏が「何かについて書くのはやめろ」とアジテーションしたことも影響している。

この事が、岩谷さんや僕が抜けた後のロッキングオンにもDNAとして内在化していて、「ロッキングオンは自分語りばかりしている」と批判されたりもするのだろう。「自分語り」とはちょっと違うと思うが。

少なくても僕は「何かについて書く」時に、それを書くことによって変化していく「自分」のことが当時のテーマだった。それは対象である「何か」との関係性のおいてのみ意味のあるものだ。対象を無視した「自分語り」ではないのだ。

さて、インターネットには言葉があふれているが、多くは「何かについて」書かれたものだけである。情報には「情」と「報」がある。「情」はインテリジェンス、「報」はインフォメーションである。「報」を伝えることが表のメディアであるなら「情」を伝えるための、もうひとつ別のメディアが必要である。

インターネットという、「報」が拡大し、自分存在を無化していくシステム化世界の中で、個人の「情」の部分をどうやって表現していくのかは、多くの人のテーマにはならないかも知れないが、僕にとっては重要なテーマであり、「note」がそのメディアとしての可能性を感じている。

ちなみに、「深呼吸する言葉」は、インターネット時代の新体詩運動として開始した。

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