見出し画像

追悼・植松逸雄「もうひとりのソフトバンク創業者」


 ソフトバンクに、もうひとりの創業者がいたことを知る人は、もうほとんどいないだろう。80年代半ば、日本ソフトバンクに出入りするようになって知り合い、生涯の友人になったのは植松逸雄だった。

 植松は孫さんと一緒に九州から東京に出てきてソフトバンクを作った男である。植松の話によると、博多でビジネスゲームのセミナーを主催していた時に、受講生として参加してきたのが高校生の孫さんだったということだ。そこで意気投合して友人となり、やがて二人で上京して日本ソフトバンクを創業する。無名の若者である孫正義が、コンピュータソフトの流通業を開始した時に、植松は孫さんのことをマスコミに売り込み、カリスマ性を高める役割を担った。福岡時代は、孫さんに箔をつけるため、黒いベンツを買って植松が運転手になった。資金は、孫さんが発明してシャープに売った翻訳機だ。

 80年代のはじまりは、コンピュータソフトが大企業や研究機関のためだけのものではなく、パーソナルな個人への需要がかすかに見え始めた頃であった。まだ業界というものも出来上がっていない時代に、新しいパソコン時代の寵児として、アスキーの西和彦と並び称される一方の旗頭としてマスコミに注目されたのも、孫さんの背後にいた植松の活動のようだった。1982年、業界をとりまとめて、パーソナルコンピュータソフトウェア協会(パソ協)を作り、会長は孫正義が、事務局長には植松が就任した。現在は、一般社団法人コンピュータソフトウェア協会となっている団体である。孫さんを顔にし、裏方は植松が動いて、新しい時代を示したのである。

 しかし、孫さんが病気で倒れ、大森体制になった中で、植松は経営主流から疎まれ、僕がソフトバンクに行ってた時は、近くの古いビルに植松用の一室を与えられ、今で言う、窓際族みたいな感じであった。僕は植松と気があったので、ソフトバンクに行くと帰りに植松の部屋に行って、おしゃべりをするのが楽しかった。やがて、植松はソフトバンクを退社し、ハドソンの社長室長に移籍する。ハドソンの工藤社長も、当時は麹町に事務所があり、植松に連れて行ってもらうと、鉄道模型とカウボーイの格好した工藤社長が迎えてくれた。

 ハドソンは1985年頃は、ファミコンのブームの真っ最中で、市ヶ谷のお堀沿いに札幌の時計台を模した黄色の社屋を建設した。植松は、日本各地で、フェミコンのイベントを行い、ハドソンの一社員であった高橋利幸を「高橋名人」の名前で、スーパースターにすることに成功した。やがて、植松は家族とともにハドソンの本拠地である札幌に引っ越した。札幌に引っ越してからは、しばらく音沙汰がなかった。

 植松から電話がかかってきたのは、1992年ぐらいだった。「今、上野にいるんだけど、行くところないから、そっちに行ってよいか」ということだった。「おお、いいよ」と返事をして、学芸大学の僕の事務所に植松がやってきた。いつもの野性的な風貌だが、何か目つきが濁っている感じがした。そして「泊まるところないので、ここに泊めてくれないか」と言う。「ああ、いいけど」と答えて、その日は事務所に泊まらせることにした。しかし、翌日もその翌日も、事務所に行くと植松がいる。10日間ほど、そういう日が続き、「おまえ、ここに住むつもりか」と笑いながら問いただした。しかも、事務所に置いてあった酒が、全部空き瓶になっているのである。

 植松が事情を語りだした。札幌のハドソンで社長室長をやりながら、ファミコンではない新しい事業を興さなければならないと思い、北海道大学と組んで、CGのコンピュータスクールを開講し、それが失敗して、ハドソンを辞めなければならなくなったようだ。「テレビゲームの歴史博物館」を作りたかったけど、作れなかったとも言っていた。それは絶対に必要だよな、と僕は植松の構想に賛同した。

 そういう事情なら、早く新しい仕事を見つけた方がよいので、いろいろと探した。植松自身も相当な人脈があるし実績もあるので、仕事はすぐに見つかると思ったが、僕の事務所に居候を続けられても困るので友人の事務所を紹介した。そしたら、やはりそこの事務所の酒も、全部飲んでしまった。植松は、相当な大酒飲みで、飲んでも飲んでも潰れることがなかった。小さい金額だが、お金も貸した。孫さんと別れる時、孫さんの性格からすれば、それなりに対応しただろうから、一文無しで追い出されたとは思えない。植松は、女やギャンブルにはまるタイプではないので、酒に溺れすぎたのだろう。

 植松は2000年7月14日に永眠した。病気で亡くなった。僕らの世代の人間は、若い時から飲める奴は飲みすぎ、飲めない奴も無理して飲んできたから、早死するか、酒が飲めなくなるかのどちらかになることが多い。お通夜は夏なのに雨だったか、薄ら寒い日だった。線香をあげた人たちが集まって酒を飲んでると、パソ協時代の人たちの中から「なんで、孫がこないんだ!」という怒号が聞こえてきた。声を発した隣の人が「まあまあ、孫さんは、もう僕らとは違う世界で生きているんですから」となだめていた。(この話を直接聞いていたのは、亀田武嗣で、亀田くんは、植松の紹介で僕は出会った)。

 植松と飲んでいて「なんだか、お前と孫さんの関係って、オレと渋谷陽一の関係に似ているな」と笑いあったことがある。渋谷も孫さんと同じように「お金の扱いの凄い奴」である。植松は21世紀を知らずに死んでしまったので、その後の孫正義伝記ブームが起きても、誰も取材することも出来ない。

 植松は、孫さんや高橋名人のような傑物の裏側にいて、最大の力を発揮する人間ではなかったのか。自分が主体になって動いたCGの学校はうまくいかなかった。時代の流れを読む力は、ものすごくあったのだが。今でも、大柄な植松が小さな目を細めて「橘川くん、それ、面白いよ」という声が忘れられない。合掌。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

橘川幸夫の無料・毎日配信メルマガやってます。https://note.com/metakit/n/n2678a57161c4

僕もスキ。
21
参加型社会一筋

こちらでもピックアップされています

記憶する葦(追悼文)
記憶する葦(追悼文)
  • 36本

一緒に時代を生きた人たち

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。