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山口さんの死(1969年の学生運動)

(1)1968年のキャンパス

 早稲田の山口俊さんが亡くなったと連絡があった。女房にも娘たちにも縁を切られ、下田警察署から身元不明で僕の後輩の古沢正夫ところに連絡があった。携帯の着信に古沢の通話記録が残っていたからだ。アパートでの孤独死で、いかにも無頼の人らしいくたばりかたである。

 僕が大学に入ったのは1968年。前年は羽田闘争があり、翌年に東大安田講堂闘争があるという、学生運動のどまんなかの時代だった。あの時代の学生運動は、現場を知らない人たちからすれば、「イデオロギーで頭のいかれた若者たちの暴動」みたいに思うだろう。確かに表面的にはゲバルトや内ゲバの写真ばかりが記録に残っている。しかし、そこに、多くの個人がいたことも確かなことなのだ。

 僕が行った国学院大学は、革マル派の拠点だった。サークルに入ると、だいたいが党派(セクト)の影響があった。党派の活動を聞いたり見てたりすると、「機関紙の読み合わせ」というのをやってる。これは各党派が発行している機関紙があるのだが、そこの内容をメンバーで読みながら、内容を覚えるというものだ。つまり、他のセクトと論争する時に、自分たちのセクトの理論を暗記して戦うわけである。バカバカしいと思った。これでは宗教の経典と変わらないではないか。だいたい、国学院に入ると革マルになって、法政大学に入ると中核派になったり中央大学だとブントになるというようなのは、まさに環境に流されているだけで、個人がいねえじゃないかと思った。

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