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2016年、橘川の新刊「ロッキングオンの時代」(晶文社)を発行します。。

 10年以上の歳月をかけて書いた原稿です。現在進行形の話ではないので、一気に書いて、早く出す必要がなかったので、何度も筆を止め、空白を置いて読みなおし、また書き始めるという作業でした。過去を語るというのは、現実に向かい合うのとは別に、しんどい作業です。そして同時に、とても楽しい作業でした。

 ようやく新刊として、発行出来ます。70年代ロッキングオンをご承知の方も、そうでない方も、70年代から始まったものは何なのかを感じていただけると嬉しいです。(橘川幸夫)

「ロッキングオンの時代」

2016年、秋に発行予定

出版社・晶文社

▼書き出し

ロッキングオンの時代。

第一話 それは新宿から始まる。

ソウルイート

 1970年という年の記憶には冬がない。何か暑いマグマが一年を覆っていたような記憶しかない。70年というのは、「70年アンポ反対」のスローガンにあったように、日米安全保障条約の改定期であり、そこに向けての学生たちの反対闘争があったわけだが、実際のその年になるまでに学生たちの主力は敗北していた。1969年の4月28日の沖縄反戦デーを境に、アンポは粉砕されないという思いが、群雲のように学生たちの心に広がっていた。先鋭化した学生と労働者の一部が赤軍や京浜安保共闘などへと傾斜していったが、彼らと、後続の大部隊との距離は離れていくばかりだった。

 そんな時代の中でも、特に新宿は一年中暑かったような気がする。信号を渡るのを待つ人も、伊勢丹で買い物をする人も、青蛾でコーヒーを飲む人も、みんな熱にうなされたように殺気立っていた。それは、学生だけではなく、サラリーマンも主婦も、そして交番の警察官はもちろん熱くなっていた。かつて学生たちに占拠された新宿駅から、狂おしい熱風が新宿通りを吹きぬけ、角筈の交差点を左折し、今の伊勢丹クイーンズシェフがあるところを右折して、しばらく行ったところに「ソウルイート」(通称・ソウルもしくはイート)があった。新宿厚生年金会館の右斜め向こうだ。入り口を入ると1階はなく、いきなり2階と地下とに分けられている。

 2階の階段のところにDJブースがあり、そこに渋谷陽一がいた。大学受験中の浪人生だった。2階では、ただ大きくすれば良いというかのように巨大なスピーカーが轟音を鳴り響かせていた。僕は、はじめてこの空間に入った時の衝撃を覚えている。ロックとは巨大なボリュームで聞くものだ、となぜか確信した。ロックは鑑賞したりなごませるものではなく、自分を圧倒させるものだ、と思った。決して自宅では聞くことの出来ない音量でロックを聞かせる空間こそがロックそのものだと思った。あまりの音量のために音は割れ、ノイズが発生しているにもかかわらず、渋谷は最大のボリュームで音楽を流し続けていた。DJといっても、今のクラブシーンにあるような、音楽と一体になってリミックスするようなものではない。ただぶっきらぼうに「ハイ、次のはシカゴの新作です。聞いてください」ぐらいのコメントをするだけの、アルバムの曲紹介係みたいなものだった。ときどき、雑談のような話題もしゃべるが、それよりも、このバカデカイ音量が、ソウトイートの最大の存在理由であった。

 壁に向かって椅子とテーブルが並んでいて、スピーカーの前に白いステージのようなものが設置されていた。そこに、座ったり寝転んだりしている常連も多かった。ジーパンにカラフルなシャツを着ている人が多かった。時々、背広姿のサラリーマンもいたが、別に不自然ではなかった。すべてが許されるパンドラの箱の中身だ。誰もが、巨大な音量に酔う、サウンド・ドランカーのようであった。頭を抱えたまま体を震わす男や、放心したまま口をあけて聞いてる女や、シンナーの匂いをあたりに撒き散らしているフーテンなど、さまざまである。

 「ソウルイート」すなわち「魂を食べる」という名前どおり、この音量に魂を食べられてしまうのであろう。そのただれた空間の中で、渋谷陽一は甲高い声で、まるで義務的であるかのように淡々と曲目を紹介し、お皿を回していた。すべては、この猥雑な空間の中から生まれた。

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