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追悼・下中直也さん


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標題=追悼・下中直也さん

掲載媒体=一週間の日記

執筆日=2012年4月 7日

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 覚悟をしていたとは言え重たい連絡だった。こうして父の世代の知り合いが視界から消えて行く。

 下中直也さんは僕の恩人である。1981年に僕はそれまでやっていたロッキングオンのスタッフ、ポンプの編集長、たちばな写植の社長を全て辞めた。何をするという目的があったわけではなく、20代に追求した方法は終わりだと衝動的に思い、とりあえず全部辞めてみた。合わせて、自分が読んできた本や聞いてきたレコードも、若い友人たちを集めて全部持っていってもらった。それまで若い世代と付き合って生きてきたが、これからは社会全体と付き合うのだと漠然と思っていた。

 なんの準備もなく貯蓄もなく、さてどうしようかと思っていた時に出会ったのが下中直也さんだった。そして下中さんの盟友であった故・玉田顕一郎さんであった。僕は銀座にあった下中さんの個人会社である東京313センターに一角を借りて好きなことをやらせてもらった。東京313センターの313は下中さんの誕生日である。

 東京313センターで発行していた「メディアレビュー」(櫻井朝雄さん編集)をバトンタッチして「イコール」という雑誌を発行しました。販売は下中さんの関係で平凡社です。下中さんに、「文庫本の次に来るのは手帳です」と提案し、手帳情報センターを作り、全国のさまざまな手帳を集めたりした。まだファイロファックスも日本に来てこなかった頃、日本で独自にシステム手帳を開発した奈良総一朗さんと緊密に会っていたのも、この頃だ。僕は、システム手帳のリファイルに文庫本のようなコンテンツカードを組み込むような方式を考えていた。ユニットインフォメーションシステムと名付けて、いろいろ検討していた。それは実現出来なかったけど、今は、iPadで自由にコンテンツを携帯出来る。集めた手帳をベースにして、別冊太陽で「手帳の本」を作った。僕が作ったのは最初の1冊だけだが、これはその後、何冊か年度別で発行された。

 ポンプでやっていたオフ会のNTP(ニュートーキングパーティ)を独立させて、「ハート」というオフ会連絡システムを作ったのも、下中さんのおかげである。京都にいた木崎愛子さんを東京に呼んで担当してもらった。

「イコール」の取材で、故・山手國弘さんに出会い、山手さんの仲人が直也さんの父上の下中弥三郎さんであると知り、因縁めいたものを感じたこともある。

 下中直也さんは大柄な大人の風格で、素晴らしい笑顔を見せてくれていた。僕のことをいつも「橘川くんは軽いな軽い」と嬉しそうに言ってくれた。重たい人たちばかりの世界で、僕のような組織に根拠を持たずにふらふらしている人間を愛してくれた。

 下中さんと知り合えたおかげで、僕は平凡社と東京印書館の家族みたいな感じになった。なにより直也さんの長男である直人くんを紹介してもらい、無二の親友として長く付きあわせてもらっている。直人くんと僕とは同年齢だが、僕の父親も直也さんと同年齢で、何度か父親を交えてお酒を飲んだが、やたらと意気投合していた。

 昨年亡くなった林雄二郎さんも、先に雄二郎さんと出会い、長男の光くんを紹介してもらったのと相似形である。いずれも僕の社会的な父親のような存在であった。

 数年前、神保町の交差点でばったり下中直也さんに出会った。まるで幼友達に会ったように直也さんは満面の笑顔を見せてくれて、喫茶店に入って世間話をした。地図情報センターにも一緒に寄らせてもらった。それがお別れだった。一度、お会いしたいと思っていたが、訃報を聞くまで行動しなかった自分を情けなく思う。会えば、普通に笑いあってるだけなんだが、直也さんに対する感謝の気持ちは言葉にしなくても伝わると思っていた。

 本当にありがとうございました。直也さんのあまり論理的ではない雑談の数々が鮮明に蘇ります。ああいう時間が僕の大切な宝物です。天国でも豪快に活動してください。ご冥福をお祈りいたします。


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