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文系と理系について


大学における文系の存在が危うくなってきた。

カドンゴの川上量生さんが「文系脳はしょうもない」というツィートをしたということで、あちこちで話題になってる。

その前に、冨山和彦さんの「大学の大半は職業訓練校にせよ」という提言が平成26年10月7日にあった。

実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議(第1回) 配付資料

▼冨山レジュメ「我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性」

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf

▼話題になったのは、冨山さんの、この図である。

大学は産業界に役立つ人間だけを育成すべきだ、という提案を40年前にしていたら大変だっただろう。それが、なんとなく「そういう考え方もあるな」と思ってしまうところに、この40年間の、大学の文科系の怠惰と傲慢があったのかも知れない。

文系と理系は、明治になって近代教育がはじまった頃からあった。この二分法は、それなりに秀逸なものだったと思う。人の世が「文化」と「文明」とのからみあいで発展してきたのだとしたら、文系は「文化」を理系は「文明」の、それぞれ進歩と発展を背負ってきた。

ただ、文化と文明は、方法論がまったく違っていて、文明は過去の成果を蓄積しながら直線的に進歩していくのに対して、文化というのは、ぐるぐると同じ地点を巡回したり、過去の成果を否定したり批判したりして、直線的には進まない。理系からすれば、文系とは、なんとも、まだるっこしい非合理的な連中だと思うだろう。

しかし、文明だけのリニアな成長で、永遠に発展した帝国はない。

故・林雄二郎は、こういう定義をした。「文明とは人間に利便性を与えるもの、文化とは人間にアイデンティティを与えるもの」と。もしかしたら、40年前までの人間には、自らの生存に対しての不安があり、アイデンティティを追求する必要性があったのだが、「豊かな社会」が実する中で、飽食生活にまみれ、すでに、アイデンティティの追求などは、暇人の道楽になっているのかも知れない。すくなくとも、この40年間、自らのアイデンティテイを必死に追求するような、明治の文学者に匹敵する文豪は現れなかっただろう。

文明の推進者である理系については、自らの方法論になんら疑問を持つこともなく、ただ、過去より優れた未来の技術を信じればよかったので、40年前よりは一段と進化したのだろう。40年前に判断停止に陥った文系と、更に進歩した理系とでは、その距離感は、測るべくもない。

冨山さんとは別の議論が過去にあった。それは学校教育における「期待される人間像」というテーマであった。経済産業省がイメージする「期待される人間像」と、文科省がイメージする「期待される人間像」とが、まるで違っていて、しかも、経産省と文科省が、その違いについて、なんのすり合わせをしてこなかった。縦割り行政の弊害であった。経産省の人たちの、極端な提案が、冨山さんの案だろう。

この40年間で、いろいろなものが変わったけど、経済原理だけは不変であった。多くの人は、儲けるために働き、大金を手にしたものが勝ち組と呼ばれた。この原理からすれば、文明の進歩はお金になるが、文化の追求はお金にならない。その結果、アニメ産業やキャラクタービジネスはビッグ産業になったが、アニメ制作者たちは、労働に見合った対価を得ているとは思えない。

果たして、本当に、理系だけの社会でよいのだろうか。それは物質的に豊かな社会にはなるだろうが、決して、幸福な社会にはならないと思う。僕らは、豊かな社会の実現の次に、幸福な社会を目指していくのだと思う。

国立大学は国家が運営しているのだから、国家のためになる人材を作れ、という議論も出てきた。しかし、その費用は国民で税金である。国民のためになる人材とは、いったい何なのか考える必要もあろう。

確かに、現在の大学における文系の立場は不透明だ。だいたい、文明に対して、批判も否定も揶揄もしない文化なんて、意味がない。大学は一度解体されるべきだと思う。そして、冨山さんの言うような、実利的で機能的な職業学校として立ち上げるのも一案だろう。ただし、それでも文系は必要なのである。文系は、文化をテーマにすべきであるし、そうであるなら、安定した補助金と学費に支えられた大学ではなく、教師自身が体をはった私塾として、多数、展開すればよい。

故・林雄二郎は、東工大出身の教授でもあり、70年代の頃から、「これからの知識人はコンピュータのことが分からなければダメだ」と言っていた。そして彼は、「文系・理系」という分類について、間違いだと指摘した。学問には、現世に役立つ『浮世系』と、現世には全く役立たないが、人類の発展にとっては大切な『浮世離れ系』がある。この二つの学部に分けるべきだ」と。

浮世系は、充実した設備と環境の大学で教育を行えばよい。浮世離れ系は、世間の中に散らしておけばよい。民俗学者の宮本常一の面倒を見たのは大財閥・渋沢敬三であった。明治・大正の金持ちは、浮世離れ系の才能を見出し、何の見返りも要求せずに、パトロンとなった。今の成金は、上場で得た金で、パトロンになることもなく、更に儲けるための浮世系への投資しかしない。現在は、大企業も、成金も、自分の判断で、才能を見極めることなく、マスコミや世間の評価でしか、人間を理解しない。それは、自らのアイデンティテイを追求することをしてこなかったからだろう。

文系は、安定を求めてはいけない。不安定さの中で、浮世離れした、アイデンティティの追求を果たすべきである。理系は答えの出る世界にいるのがよく、文系は決して正解のない世界でもがくのが宿命である。



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