「参加型社会宣言」Feedback
反応をいただきました。対話も続けています。
一冊の本からはじまる、トーク・セションが本書を発行した意味です。
イェーイ!
●宮崎要輔
【荒川修作は死なないための住宅をつくった、橘川幸夫は死なない本をつくった】
一般に本といえば書き留める、書き残すものである。でもこの本はこれまでの知識や経験を保存する本とは大きく違う。生命体そのものである。
私たち読者に企みを投げ掛け続け、動的に働きかけ続ける本である。著者の橘川さん本人の存在としての生命体がそこには保存され、橘川幸夫としてこの本もまた生きている。
多くの本に対して読者が行う行為は、その本に書いてあることを読み取り、学ぶことである。生命体であるこの本はこうしたこれまでの本とは違い、読者が著者から一方的に学ぶものではない。読者と著者が未来に対してともに企む本である。
第1章ではグサっと刺さる物事の本質をついたような言葉が見開きの2ページごとに毎回登場し、グサっと私たちに爽快に突き刺さってくる。
そうやって著者の橘川さんが同時代を生きる同じ1人の人間として、時代への洞察やまなざしを時代の伴走者としてともに思考していくのが第1章である。
混迷する現代社会において、現象を抽出し、言葉を発明する天才が時代を伴走してくれる頼もしさは読んだものの特権だろう。
橘川さんとの伴走といえば私にとっての1番の経験は未来フェスである。未来フェスは、2013年のゴールデンウィークのお昼過ぎ橘川さんから突然かかってきた「来週京都に行くから若い連中の勉強会がしたいから主催してくれ」という電話がはじまりだった。その勉強会を京都で開催し、帰りの新幹線で橘川さんに、おりてきたのが未来フェスだった。
当時まだ収入面において食べていくこともままならなかった私が、それでも未来フェスを最優先としたのは、ただただ橘川さんと故・林雄二郎さんとの関係性が好きだったからだ。そうした一対一の関係を一人一人がもっと持てるようになることに未来を感じていたからに他ならなかった。
当時は、お金もなければスキルも経験もつながりもなかった。そうした中で私にできることは、頭を下げること、文章を書くこと、時間がかかってもメールや電話ではなく、直接足を運ぶこと、それだけだった。
何者でもない自分を受け入れ、受け入れた中で何者でもないからこそ、どう行動するのか。20代とは何物でもない自分を受け入れてからがスタートなのだと30代になった今は、そう思う。
時々、未来フェスをやっていてどうなったかときかれることがある。
そう聞かれて毎回のように頭の中で浮かび上がるのは、一生涯の親友ができた、頭が上がらない人生の大先輩が増えた。その2つだけだ。
それに尽きるし、それが何よりの1番の財産だと思う。
橘川さんは、林さんと20代の時に出会い、そこから林さんが95歳で亡くなるまで生涯ずっと付き合ってきたが、共著こそあれ、一度も一緒に仕事はしていないという。
仕事をしてしまうとどうしても自分の意思や気持ちはどうあれ、利用してしまうことが起きる、そうした関係性にはなりたくない。何よりも自分と林さんのあいだにあるみえないなにかを一番大切にしていたようだ。私は、それを大切にしてこれたことが橘川さんの生涯の誇りの一つのように感じている。
2020年、コロナ禍において今まで誰とどう付き合ってきたか
がダイレクトに直面させられているように個人的に感じている。
私は家族の体調の関係で3月中旬から7月15日現在まで一度も電車にも乗らず、市外に出たのが3回あるかどうかの完全な引きこもり生活をしている。5ヶ月近くこの生活を続けてこられているのも一生涯の親友と頭が上がらない人生の大先輩をはじめ、今まで出逢ったきた方々のおかげである。
24時間日々の人生の中で常に頭の中で文章を書いている橘川さんの極限まで削ぎ落としてギュッと身をつまらせた文章の集合体が第1章であるならば、企画書で構成されている第2章は辞書的に興味のあるものを読んでいく部分のようにみえる。
私も本が届いたとき、最初は企画書集として興味のあるものだけを読めばいい第2章より、第1章のような橘川さんの文章をもっと読みたいなと思うぐらい大きな誤解をしていた。
実は第1章があった上でのこの第2章が大きな仕掛けで、この本が第1章の部分だけではそうはならなかった、生涯付き合う本としての成立がなされている。
今は、一人一人の一対一のちゃんとした関係を大切にしている橘川さんらしい第2章だと思っている。
30年後も40年後ももしかしたら100年後もこの本があることで橘川さんは未だ見ぬ誰かと新しい企みをしているはずだ。
100年先の未来であっても世界に向けて、社会に向けて創造という行為を働きかけ続ける。
橘川さんにとって「創造し続ける=死なないこと」ではないかと思う。
個人史も民族史も人類史も生命史さえも脱ぎ捨た、存在としての
橘川幸夫がそこにはある。
橘川幸夫は死なない、そしてそんな本を読んだ僕も死なない。
最後に
2013年、橘川さんが大切に大切に何度も何度も毎回、はじめて話すように私に伝えてくれた文章がある。
「未来学とはロードマップ型の未来予測ではなく、人々の日々の生活の営みの中にある未来の芽があり、その未来の芽をみつけ水をやること。人々の日々の生活の営みを大切にするように。」
コロナ禍の中で変わっていくこともあるだろう。今までの近代のように誰かを象徴とすることでわかりやすい、社会をまた行うのではなく、人々の日々の生活の営みを大切にする社会にしていきたい。
●津田博史(KADOKAWA Connected)
橘川さんは、現代の稀代の詩人である。
人の言葉の根っこまで、耳を澄ませて聴くことの出来る人はそれだけで詩人である。
橘川さんは、人の肩書による無意味なオーラでバイアスが掛からない、
その人の生の言葉に、喜んで耳を澄ます。
詩人である。
人の心を動かす言葉を放てる人はしじんである。
放つ人を決めている、からであり、
いまだ会ったことのないあなたに向けて言葉を放てる人は、詩人である。
心を揺さぶられないはずはない。
稼ぎは別として、この50年のビジネスの盛衰や歴史を、
そばで丸ごとみてきた人である。
稼げているかどうかは、別として、
それは、稼げるかどうかではなく、
ひとりひとりに向けて、放たれているかどうか、で決まる。
ひとりひとりが、ひとりひとりで、ひとりひとりとつながる。
その為に今ここに、わたしはいる。
企画書には乗っからない。
乗っかれない、という方が近いかも。
乗れない、ということではなく、
乗れる企画を出して初めて、企画の向こう側にいる橘川さんが、
レビュ-してくれるのだから。
ようやく来たなと言われるのに焦がれて、
まずは、ひとりで立つ。
ひとりだち。
ひとはたち、さることもなく、そこにいる。
耳を澄まそう。
●久恒啓一(多摩大学特任教授)
書評:橘川幸夫『参加型社会宣言』ーー橘川幸夫は新型コロナである。
●村越 力
●中村 峰夫(薬剤師)
今まで視野が狭い読書をしていたことを再認識。
一つ一つの単語と流れに気を付けながら文章の背景を感じてました。
最後まで読みましたが、今までの本と異なり、余韻がいつまでも脳裏に長く響いている感触が心地いいです。
今後の世界を感じ、考える時のアンカーになりそうで、数か月後に再度、読み直してチェックをしたくなる本(メッセージ)に感じました。ありがとうございます。
●中村伊知哉 iU・情報経営イノベーション専門職大学・学長)
令和という新時代を迎えたのに、コロナの渦に縮こまるわれわれに贈られた、ロックな宣言。「日本近代が平成で終わった」。メディア、金融、教育・・怒涛の37提案が「新しい文化の時代」を描く。クラファン出版という手法もロック!
●金丸 貴臣
疫病禍や格差激化する社会に生きるのは、台風時に川の中洲に暮らすようなものだ。頑迷に我慢するだけでは死んでしまう。岸から高いところに逃げ、流れても仕方ないものは諦める。住み慣れた土地を離れて新しく生きる。荒地しかなければ開墾する。辛いけれど仕方のないことだし、新しい生き方にワクワクするのも自分の生き方だと思った方がいい。
映画が生まれて、演劇は斜陽し、テレビが生まれて、映画は衰微した。ネット動画が自由に見られるようになって、テレビ離れも久しい。今をときめくIT業界だって40年前にはまだ種の中、テレビだって65年くらいしか経っていない。ニーズを発信して、受けた人が新しいものを作るライブ感がいい。古いものを守りたいなら守る方法を受信し新しく編み出す方がいい。
●和田 嘉弘(インテリジェントネット株式会社 代表取締役)
「1世紀の時代価値観が変わるのは50年かかる。」昔、そんな言葉を橘川さんから聞いて、なるほどなと思った。
21世紀の価値観がマジョリティとなるのは2050年からということだ。○○時代と教科書で読むとそこでくっきり区別があるように聞こえるが、実際はグラデーションで、渦中にいる人は気づきにくい。
2000年代前半、若い僕は、インターネットにやられ、もっと世の中が早く変わると思った。だが、結果はグラデーションだった。
本書あとがきに、以下の一文がある
- 情報産業革命の時代
2020年、人類は「近代の20世紀」を終了して、本当の意味での「21世紀」を開始するのだと思う。
グラデーションの節目が少し早く変わった。
50年かからずに本当の意味での21世紀に変わるのかもしれない。
●小笠原雄
読後。何をもらっているか、わからないのだけど、何かをもらっているのはわかる。不安になるし、安心するし、満たされるようで、空っぽになる。投げかけられて、その答えを出すまでが、この本の読了になるのだろう。
「味の消えないガム・溶けないキャンディー」
そんな感じで、何度も読み返すものだ。一度読んだだけじゃ、何がなんだかわからない。何かすごいんだけど、何か、感じるもの、宿るものがあるんだけど、それが何かわからない。だから何度も見て、読み直して、そのたびに考える。
答えが、そこにはないから、自分の中で、考えて、決める。その具体的な答えは、やはり、時代とともに代わっていくんだと思う。(だから答えが、本というフィックスされた物体には、載せられないのかもしれない)
考えろ、と、その本は、言うが、何について考えるか、さえも、提示されていない。何について考えなければいけないか、を考えるところから始まる。それは、地面さえもない、宇宙の、中間。なんだろう、雲が湧いている感じ。宇宙の素、みたいなものか。これが爆発したら、いいのか。だから、とにかく、本の感想なんて、なんて言えばいいかわからない。ああ、名前のない感情が、あるんだ。
時間が経って、気がついた。
名前のない感情、というのは、叫びだ。ロックだ。シャウトだ。オーディエンスの、レスポンスだ。腕を上げて、叫ぶ、アレと同じことが、心の中で起きている。だから、言葉ではなく、声で、行動で、返す、というのが、筋のようだ。橘川さんの、ロックに対する正しい姿勢。
それは、言葉にできないなら、沈黙するのではなく、言葉ではないものを、叫ぶ、しかない。
言葉にならない叫びを、自分なりに表現することが、この本に対する正しい姿勢というものかもしれない。
●村上知彦(まんが評論家・編集者)
まだ読んでないのだけど一つだけ。さっき気がついたので。定価が、表4には「本体2,200円+税」とあるのに、帯では「2,300円(税別)」となってるのだが、いいのか?" (駄目です。次があれば、なおします。橘川)
●妹尾みえ(ライター/編集者)
◆ともに時代を疾走するひとへ。
橘川幸夫さんの最新刊『参加型社会宣言 21世紀のためのコンセプトノート』(発行メタブレーン)が届いた。橘川さんは、渋谷陽一さんたちと『ロッキング・オン』を立ち上げた創刊メンバーのひとり。
その後、投稿型雑誌『ポンプ』を発行するなど常に参加型社会、参加型メディアを追いかけてきた人である。
デジタルメディア研究所の“所長”だし本もたくさん書いている。
イベントで立ち回っている。最近は大学の講師もしている。
でも、橘川さんて何するひと? と肩書きを聞かれると困る。
参加型メディア一筋のひと、
人とひとの真ん中にいるひと。
としか言いようがない。
この本は1981年に出版された『企画書 1999年のためのコンセプトノート』のバージョンアップ版として位置づけられている。
この本は当時わたしにとって驚きの一冊だった。
企画書のノウハウ本ではない。
それはまだ見ぬ、でも手の中にある未来への指南書だった。
わたしが当時作っていたブルースのミニコミを見てもらおうと送ったのは、
その少し後だったと思う。その後、おしゃべり放送局という有線のラジオ局でDJ(ディスクジョッキーの方)をさせてもらったこともあるし、実に息子はそのころからのおつきあい。
不登校のちょっとおませな彼に対し、対等に話を聞いてくれた人でもある。
いまもたまにお会いすると、最近出会ったユニークな若いひとたちの話をしてくれる。
そんな橘川さんの本だから
今度も団塊世代からの生き方指南書ではない。
ともに時代を疾走するひとに送る想いである。
たくさんの“企画提案書”が掲載されているのも
そのためなのだろう。考えて、動くのは一人ひとりだ。
◆クラウドファンディングで生まれた参加型書籍
今回はクラウドファンディングを利用しての出版。
校正者4名は、支援者126人の中から表れたという。
目次や進行状況は逐次、アップされていたから
こちらも一緒に編集のプロセスに参加しているような気持ちで
出版される日を待っていた。
「記憶の骨董屋」「炎上しない掲示板」「電子出版バンド」
「JASRACインキュベーションプログラム」「未来税金」
「音の図書館」「社会実装ハウス」
「コインランドリー・コミュニティ」
・・・・目次から項目を拾っただけでも、そうだ、わたしにも何か
できそう、との気持ちがむくむくアタマをもたげてくる。
◆音楽がなければ生きているとは言えない。
ロッキンオンな橘川さんであるから、教育、ゲーム、金融、国際・・・さまざまなトピックの中にはもちろん音楽に触れた一文もある。
中でも
P28の「NO MUSIC,NO LIFE?」の項目は
電車の中で読みながら、胸が熱くなった。
「人間は食料がなければ生きていけないが音楽がなくても生きていける。しかし、それは単に生存出来るということで、人間が人間として、つまり人間進化の最前線である現代社会で生きるには、音楽がなければ生きているとは言えない。」
やばい。
でも、音楽って必要じゃないですかぁ~
と遠回しにではない。
音楽の生存意義を、こんなにハッキリ言ってくれるなんて。
「情報は空間的に、広範囲な世界に広がっていくが、音楽は、時間の流れを遡っていくように思える。私たちがどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、音楽とともに考えていきたい。」
コロナ禍のライブハウスの一件で
SNSでは何度か虚しさに精気を抜かれそうになった。
でも、ライブなんて、音楽なんて
あってもなくても困らないだろう、なんて言わせない。
胸を張ろう。
空腹を満たすこともできないし
筋肉や骨をつくることにも貢献しないかもしれないが
わたしのいくばくかは音楽でできているのだ。
そして言葉をつかって
音楽を通じ人の来し方行く末を表していくのが
わたしのやるべきことなのだ。
(7月6日のnoteより)" '2020/07/09 11:22:50
●宮永真幸(札幌テレビ放送 ニュースキャスター解説委員)
この本の魅力は「まえがき」と「あとがき」だ。
「まえがき」とは本に書かれているもの
だけではない。
本になる前の過程のことも含んでいる。
クラウドファンディングへの参加で、
本がつくられていく過程を現在進行形の
ワクワク感をもって楽しむことができた。
これが参加型社会の魅力なのかと
出版前に早くも気づかされたのである。
そして「あとがき」とは
本が出版されたあとに書かれ、
語られる橘川さんと読者の対話のことだ。
あるいは読者どうしの新たな繋がり。
その本領は本を読み終わってからはじまる。
つまり、この本は私たちがつくる
参加型社会の「偉大なるまえがき」
なのである。
●中能 ひろみ
世界が雨で覆われる朝『参加型社会宣言』は届いた。
あちこちの川が氾濫して道路が冠水しているこんな状態なのに幾人もの人たちの手を経て届けてくれた。
すぐに本を開いた。
紙の感触は柔らかくのっけから手触りが違う。美しい。
橘川幸夫という実践の人の、実践の歴史と人類の歴史と進化が、そして確かによくわからない図形が、そこにはあった。
私はすぐれた企画書であるとか、開発者が書くすぐれた取扱説明書だとか、そういったものに心を惹かれ撃ち抜かれる癖がある。人を言葉だけで動かすからだ。人もマシンもコンピュータも、あらゆるハードウェアをその言葉だけで。
実践的で具体的、かつ大盤振る舞いの企画書として橘川幸夫は書いていた。何十年も『参加型メディア』を作り続けたその人が、コロナ渦(禍ではなく渦を橘川幸夫は理由をもって使っている)の不安を、日本の近代の終わりの契機として取扱い、それまでの文化とこれからの文化を光の未来への点と線を示唆している。美しくないわけがない。
しかし、その美しさに引っ張られ過ぎないよう注意深く読む。ぶっ飛んでいるから帰着するのが難しくなりそうだ。
『私とあなたの差異を越えていく統合的自我こそが、私たち一人ひとりがメディアそのものになっていくことであり、「ブッダの真理、キリストの愛、孔子の教え」を具体化することになるだろう。融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての私たち」の時代がはじまるのだ。』(p.42より引用)
でも橘川さん、仰ることわかります。人間がその時代の都合で彼らの言葉を歪めてしまいました。彼ら自分で本を書かなかったから。
この本がどれだけぶっ飛んでいる本かというのがわかります。でも『伝えたいことがあって本を出す』という人類の道筋から1ミリも逸れていない本だと思います。
第一編は泣きながら読みました。第二編は笑いながら読みました。元気が出ました。ロックでした。
この本は本の姿を借りた森羅万象、天地万象、人間の全てを描き出そうとしている。コロナ渦以前の文化への哀惜と愛で輪郭を描き、未来を光あるものにする為に。
言葉のひとつひとつ、どこをとっても美しく、きらめきが散りばめられていた。生きた言葉だからか。新鮮な呼吸をさせる言葉だからか。
美しくてたまらない。
●浅沼正治
今回も相当面白かったです。同時に読むのに中々時間がかかりました。橘川さんのアウトプットの巨大さを、受け取るには、まだまだですけど、「未来しか感じない。」そんな本です。
●田原真人(トオラス共同創業者)
学生運動時代の老教授の言葉のエピソードを読み、「じゃあ、どんなものを作るのか?」ということを実験を重ねながら考え、企画書という形で提案されてきたのだというところが、とても響きました。