見出し画像

さよなら、松村雄策。

松村雄策が亡くなった。

1.

 2022年3月12日の午後、渋谷陽一からメールがあって、自宅療養中の松村のところに見舞いに行ってくると。今日は行けないので、明日にでも行きたいと伝えてくれ、と頼んだ。

 松村が倒れて、渋谷は、高額費用なのだと思うが、最先端の遺伝子治療を松村に受けさせていた。末期癌の人たちに効果があるのだが、松村は副作用がきついといって、やめてしまった。

 松村はものすごく強い男だが、同時に弱虫である。松村の親父は、ボクシングの戦後初の世界チャンピオンである白井義男が勝って、リング上でセコンドに肩車されている時の、セコンドである。松村の故郷の大森で酒を飲んでいると、「おまえの親父は喧嘩が強いんで有名だった」と言われたのが、松村の自慢であった。

 プロレスが好きで、路上での武勇伝もたくさんあり、ロッキング・オンで一番、でかくて、大酒飲みの無頼派である。でも、同時に、繊細すぎるほど繊細な弱虫でもあった。

2.

 松村のお見舞いに行った渋谷からメールが来た。寝ていて、話すことは出来なかったが、意識ははっきりしていて、「明日、橘川が来るぞ」と言ったら、うんうんと頷いたと言う。

 それで、松村のかみさんだった上原さんにメールして、何時くらいに行けばよいかやりとりしていた。その途中て、松村の様態が悪化したようで、上原さんからは「渋谷さんに会って満足するなよ!」と。

 渋谷が、オレたちの代表として、松村とのお別れをしたことになった。


3.

 若い時、10代の後半だな、多感な時期であるので、いろんなことを感じたり考えたりしていた。その中で「死」は、得体の知れないものであり、どのように考えてよいのか分からなくて混乱した。「死」が怖かったし、大好きな人たちを奪う許せないものに感じた。

 還暦をすぎて、肉体の衰えを感じ、何度も気絶し、片目を失っていくと、「死」というものが具体的なものとして実感出来るようになってきた。若い時の「死」は、まるでリアリティがなく観念的なものだと分かった。具体的なものになれば、それは、不安や恐れではなく、具体的に自分の死を理解して、自分が死んだあとのことを考えるようになった。私塾をはじめたのも、そういう理由からである。

 しかし、友だちの死は、いつも突然であり、納得のしがたい不条理なものである。まして、松村雄策は、僕にとって、かけがえのない存在である。僕は自分の人生でたくさんの人たちと出会い、交流してきたが、ロッキング・オンを一緒に創刊した、渋谷陽一、岩谷宏、松村雄策の3人は、人生において特別な存在である。

 橘川を入れて創刊の4人は、性格も違えば、感性も違う、人生の方法論も違うし、金銭感覚も違う。なにもかも違う4人が集まって、10年間、彼らと同じ時代を生きて、時代を作ってきた。その時代の「ROCK」の可能性を感じていたことだけが共通であった。その後、バラバラになったが、この10年間は、僕の故郷であり、出発点であった。この4人の関係は、友だちとか同志とかいう存在とは違う、何事かなのである。

 ああ、松村とは、もっとちゃんと付き合うべきだった。ごめん。


4.

 渋谷は酒を飲まないし、岩谷さんは、酒飲みだが、酒飲んで管巻いたり暴れたりするタイプではないので、松村と橘川が飲みにいくことが多かった。松村は真正の大酒飲みだが、僕は、すぐに顔に出て底なしに飲むタイプではないが、酒場の雰囲気だけは好きで、定期券買ってゴールデン街に通ったりした。

 松村は、自由が丘の「金田」という居酒屋が好きだった。いつだったか、上々颱風のえみちゃんだったと思うが、3人で金田に行ったら、松村は、常連として店の人と馴染んでいた。元店主の葬儀にも参列したはずだ。金田に最初に松村を連れていったのは、僕だ。

 中井に、マルタ酒場という、松村の常連の居酒屋があって、川沿いに歩いていって、とても不便なところにある名店である。ここも、松村を最初に連れていったのは、僕である。当時、僕は、落合のアパートでカミさんと同棲していて、カミさんは仕事で文芸春秋社の雑誌の校正をやっていて、文春の人に連れられていったのが、中井の飲み屋である。中井は、下落合文化人の町だったから、こういう店も詳しいのだろう。その居酒屋の親父とも、松村はじっくりと付き合った。

 松村は、付き合うとなると徹底的に付き合う男だ。しかし、気に入らないと、テコでも動かない意固地な頑固者で、社会生活には不適切な方法だろう。家族は苦労したと思うが、これが「岩石生活」なのだから、仕方ない。

 そうやって最後まで付き合ったのが、ビートルズである。中学生の時に衝撃を与えてくれたミュージシャンを生涯変わることのないファンであり続けるって、凄いよな。故・石坂敬一さんは、70年代にロッキング・オンを創刊した頃は、東芝EMIの一ディレクターだったが、その後、ものすごい出世をしたが、松村と石坂さんは、ずっと普通に、飲み仲間だった。ビートルズのことを語り合っていたのだろう。

 松村は、お店でも人でも、徹底的に深く付き合う男であった。だから、付き合うなら付き合う、付き合わないなら徹底的に付き合わないと、分けていたのだと思う。

 そうなんだよな。松村のそういう性格を知っていながら、僕は、曖昧に付き合ってしまったのかも知れない。ごめんな。


5.

 人は生まれて死ぬ。生きている者は、先に死んでしまった仲間のことを記憶の中で生かして、一緒に生き続ける。松村はでかいので、背負って走るのも大変だが、なんとか、もうすこし与えられた生命を生きてみるよ。先に天国に行って、馴染みの飲み屋を見つけといてくれ。二人で飲んで、思い出を語ろうな。

 さようなら、松村雄策。


▼齊藤陽一さんの写真。

画像4
これはどこだ。屋根裏か。
画像5
70年代、どこかのスタジオだな。NHKかな。
画像3
1970年代だな。新宿・ゴールデーン街。
画像2
これは1980年初期のロッキング・オンの宴会だな。後ろを歩いているのは、大久保青志。

あなたに沈みたい。


さよなら、松村雄策(2)

2020年の同窓会。三軒茶屋「きよみず」で。

昔はスマホがなかったので、写真はあまりないんだけど、宴会の写真、いつも、松村と僕が隣にいるな。



橘川幸夫の無料・毎日配信メルマガやってます。https://note.com/metakit/n/n2678a57161c4