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出版構造論ノート(13)出版企画はどこで作られるのか。


(1)ほんとはなにか。

 僕が学生時代だった1970年前後、書店は、得体の知れない密林だった。そこには、何のために存在しているのかよく分からない物体が並んでいた。もちろん、実用書やエンターテイメントの本や雑誌が大半なのだけど、中には、聞いたことのない学問領域や、普通の人間には永遠に縁がない世界についての克明な案内があったり、人間として決定的な軸がズレているだろうと思われる著者の書籍なども並んでいた。そして僕は、その「何のためにあるのかよく分からない本」に不思議な魅力を感じ、書物の旅を開始した。

 最近の本屋がつまらないのは、書名と装丁を見ただけで、何を目的に作られたのかすぐに分かってしまうからではないか。それは、読み手の僕の方が、新しいものを発見する視座を失っているからなのかも知れないが、80年代ぐらいから、書店に並ぶ本が、あらゆる意味で「実用書」になってきたことに違和感を感じていた。

 僕の師であり生涯の友であった故・林雄二郎は、学問領域の「文化系・理科系」という分類法に異を唱え「浮世系・浮世離れ系」とに分けるべしと語った。浮世系とは、現実に、すぐに役に立つ研究領域、例えば、機械工学とか簿記とか。浮世離れ系とは、すぐに現実には役立たないけど、人類にとって必要な学問領域。例えば、哲学とか美学とか素粒子科学など。

 要するに、書店は、浮世系の書籍が大半を占めるようになってしまったのでは。それも、もっとも浮世世俗的な、ビジネス書の領域の拡大は、80年代以降すさまじいものがある。「こうすれば儲かる」「こうすれば利益が上がる」「こうすれば消費者を洗脳出来る」そんな本ばかりが店頭に目立つ。あるいは「こうすれば異性にもてる」「こうすれば幸福になれる」「こうすれば自信がつく」というようなハウツー本たちの群れ。僕にとって本とは、幸福のなり方を教えてくれるものではなくて、そもそも幸福とは何なのか、という本質的な問いを投げかけてくれるものであった。回答のない大きな質問が本というものだった。

(2)ブンダバー

 80年代のバブル時代を境目に、日本社会は大きく変化したのだと思う。それは、デジタル化の推進と無縁ではない。デジタル時代においては、すべての価値はデジタル化され、アーカイブされ、データマイニングされる。アナログな個人が「どういう本を作りたいか」という意欲よりも客観的に「どういう本が売れているか」が編集会議の大きなテーマになる。

 かつて、文壇バーというのがあった。銀座には「数寄屋橋」や「ルパン」のようなバーがあり、新宿ゴールデン街も、ある種の文壇バーであった。こちらは、映画や演劇などのカルチャー人種も多かったが。そこでは、連日連夜、出版社の編集者と作家たちが飲んだくれていた。そして、その飲み屋での馬鹿騒ぎが、実は、編集会議であった。多くの作品や、新雑誌などは、飲み屋の席で生まれたのだと思う。誰かがバカな企画を話すと、おおそれ面白い、やろうぜ、とか。おお、それなら、あいつにやらせたら面白いだろう、という、出版社の垣根を超えた、企画会議が連日展開されていた。

 ところが、80年代なかば以降から、こういう文化は廃れ、編集企画は、パワポとエクセルによる社内会議で検討されることになり、ビジネス的に覚めた視点での議論ばかりが繰り返された。僕は、この方式が日本の出版界をつまらなくし、書店を窮地に追いやっているのだと思う。

 しかし、これは、出版業界に限らず、すべての商品開発の現場で起きてしまったことなのだろう。新しい商品は少しも新しくなく、古いもののマイナーチェンジでしかない。新雑誌が少しも「新」ではないのと同じだ。

 そろそろ、この方法論に飽きてもよいのではないか。
 もういちど、スノッブな文壇バーを復活しても仕方ない。
 デジタル革命を経験した者たちが、新しい、企画のわいがやサロンを作ればよいと思う。
 著者、編集者、読者のリアルな共有空間を作り、再び、バカバカしくも楽しい編集企画会議を実現したい。

 本年秋に、21世紀の文壇バー「ブンダバー」をオープンします。
ブンダバーは、ドイツ語でワンダフルという意味(らしいです)w

 詳細は、近日。
 ていうか、まだ何も決まってないw

追伸
 学生時代、書店で感じた「異なるものとの偶然の出会い」の楽しさは、今、noteのシャッフル機能で、少し味わえる。noteには検索エンジンもランキングもないが、シャッフル機能があり、これは、とても、大事なポイントだと思う。シャッフルは左上ね。誰かに用意された新しい情報を喜ぶのではなく、偶然性の出会いと、執拗な追求が必要なのだよ。

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