追悼・大築準

 中学のアルバムから、音楽家の吉岡しげみさんと同級生だったことが分かり、彼女とやりとりをしていて、彼女の音楽活動に関わった若い子の親が四谷一中だった。その親が吉岡さんのライブにも来たという。宝井と言う。
中学時代の親友である。宝井と大築準と私は、よくつるんでいた。宝井も大築も背が高くいつも最後列だった。大築なんか中二で180あった。宝井も同じくらい。しかも二人とも成績はトップクラス。私は背が低くいつも前列。成績も悪い。そんな三人だけど仲良しだった。

 大築は四谷警察の裏の左門町に住んでた。親父は大学教授で家にはピアノがある音楽室があり、庭も大きかった。バイオリン習っていた。お屋敷のお坊ちゃんである。宝井も、その近くで裕福そうであった。私は須賀神社の下の長屋みたいな家。

 大築とはすごく仲良しだったのだが、何の理由か忘れたが、私が何かの嘘をつき激怒した大築に路上で投げ飛ばされた。それ以来、話すことはなかった。大築はすごく優しくて頭が良く、彼と友だちだったことは、ある種の誇りだったから、それは辛いことだったが、投げ飛ばされたことはショックだった。

 大築は成績が良かったので、多分、新宿か戸山高校にいったのだと思う。僕は國學院の青山。自宅から徒歩通学していた。

 大学入学は1968年。風の噂で、大築は高校生の時に学生運動に入り退学になったと聞いた。純粋で直線的な大築らしいな、と感じた。

 次に大築の名前を聞いたのは、そこから何十年もして、ホビット村の川内たみさんと知り合って彼女から大築の名前が出た。たみさんは、粘土科学研究所の手塚くんと、粘土商品の開発をしていて、手塚くんは、私がロッキングオン時代、岩谷宏が劇団を作り、そのメンバーだった。たみさんも、ロッキングオンの創刊時からの読者だった。

 大築は高校を中退して市民活動家になり、反原発やエコロジー推進の活動をしていた。たみさんの紹介で大築と中学以来の再会となった。お互い、昔のことは話さず、それぞれの表情から、大変な人生を生きてきたなあ、と言う、見えない同志感を感じた。別れる時も、お互い一緒になることはないけど頑張れよと言うような笑顔だったと思う。

 その後、大築は伊豆の方に引越しをして、彼が編集長をしていた人間家族を読むことでしか、彼の近況は知ることがなかった。やがて、大築の死を聞かされた。

 私は大築の中学生時代の、まことに純粋な笑顔しか知らない。その笑顔と会えないことが寂しい。

大築のことを検索したら、追悼文があった。なんとグリーンポストの恒任くんの文章だ。彼は、90年ぐらいからグリーンエネルギーを追求してたが、エコビジネスが巨大資本の環境ビジネスの暴風になり、巻き込まれて大変な思いをしていた。

 さよなら大築。あの世で、また遊ぼう。



▼中学生の時にみんなで行った正丸峠。小さな僕の右側が大築。左でしゃがんでるのが宝井。


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