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ジョージ秋山と内田勝との出会いについて。

 2020年5月12日、ジョージ秋山さんが亡くなった。2013年に、僕が少年マガジンの編集長で、ジョージ秋山を発掘したと言って良い内田勝さんから聞いたジョージ秋山との出会いについて、Twitterで連投していたので、再掲載する。この他にも、ジョージ秋山がいきなりヒットメーカーになり莫大なギャラをもらい、内田さんの自宅に遊びに来る時に、途中のおもちゃ屋で車に乗せられるだけ玩具をつめて、内田さんの子どものお土産だと持ってきたことがあり、その時は内田さんが激怒して、「馬鹿なことをするな」と叱りつけて、一緒に車に乗って、おもちゃ屋に返品しにいったことがあるというエピソードも聞いた。世間知らずの子どもがいきなり大金をつかむと、非常識なことを平気でする、と内田さんは、「よくある話」のように語ったが、なんだか嬉しそうにも見えた。ジョージさんにとって、内田さんは、頑固親父のようなものであったのだろう。そうした関係を、銭ゲバのモデルを内田さんにしてしまうところが、ジョージ秋山の天才たるゆえんだろう。

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●Twitter連投
2013年1月3日

内田さんに聞いた話。内田さんは教育大の学生時代に、講談社のバイトで入って、そのまま入社して少年マガジンの編集部に。マガジンを作った牧野さんというのは、戦後出版きっての編集者だと思う。牧野さんの無理難題に、内田さんは振り回されるんだな。
posted at 02:13:58 

通販というのは、少年マガジンが始めた誌上領布会というのが、はじまりだと言われてる。マガジンの誌面で、記念切手とかモデルガンとか売ったんだな。それは、確か、牧野さんに命じられた内田さんがやったはず。切手代用というシステムも。このへん、記憶不確かw
posted at 02:17:39 

30数年前に、内田さんと、飲みながら聞いた話だから、記憶が不確かだが。ある時、牧野編集長から、内田さんは、マンガの原画を渡される。講談社の受付に、誰かが置いていったのだが、名前も連絡先も書いてないので、調べろという命令だった。
posted at 02:21:02 

その原画は、確かにオリジナルな画風で完成度も高かった。内田さんは、いろんなマンガ家や、アシスタントに絵を見せたが、誰も分からないと言う。困り果ててしまった。それで、神保町にあった、マンガを得意とする古本屋があって、そこに持って行くことにした。
posted at 02:24:49 

その本屋の店長も、分からなかったが、アルバイトの少年が、「ああ、この線知ってます」という。そのマンガ家は、まだ無名の、モンキーパンチだった。
posted at 02:26:34 

それから何年かして、内田さんが、少年マガジンの編集長になり、黄金時代を迎えるのだが、講談社に原稿を持ち込んできた新人がいた。絵は下手だけど、何か凄いパワーを感じて、内田さんが会うことにした。いろいろ話してると、その少年が「僕のこと分かりますか」と言う。
posted at 02:31:03 

よく見ると、あのモンキーパンチを教えてくれた、古本屋のアルバイト少年だった。そして、その少年こそが、ジョージ秋山だったのである。この話を内田さんから聞いた時、僕は、えええっ、と大声をあげてしまった。当時の少年マガジン編集部というのは、無名の才能が、渦巻いていたのだな。
posted at 02:34:33 

ジョージ秋山の、銭ゲバとか、アシュラの顔のモデルは、内田さんだと言われている。迫力あるんだ、これが。内田さんは、少年マガジン黄金時代のエピソードをたくさん教えてくれたが、この話が一番驚いたな。
posted at 02:38:02 

エピソードのたくさんある人生が良いなあ。
posted at 02:41:25

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なお、内田さんの話は、追悼文を書かせてもらった。補足資料も追加した。

さようなら内田勝さん

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