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探偵になるまでの2,3のこと ㉒
先生たちが帰っても、母さんはまだ怒っていた。
「内気そうにしていて、あの畑中先生ってひどすぎる! メディア関係者にイジメ加害者の子が割り出される? 割り出されればいいのよ。ウチがどんな思いをしたか、思い知ればいいのに!」
「よそうよ、母さん」
お茶の飲み残しをシンクに流しながらぼくは言った。おなかが空いたわけじゃなかったけど、なんとなく冷蔵庫を開けて中を見まわした。
「何か食べたいの?」
母さんは不機嫌を引きずった顔をこっちに向けた。
「しばらくは保護者同士の話し合いはしないでほしい、ですって! 謝罪文だけをこっちに寄越して、勝手にこれで終わりにしようとしているのよ、良真」
「ぼく、マジでもう終わりにしたいんだ」
「わたしは納得できない」
サポーターに包まれた片足を引きながら母さんがキッチンに入って来た。
「まだ四時ね。晩御飯はどうする? 外で食べる?」
「その足じゃ運転たいへんじゃない? 適当に食べようよ」
「昨日、あんたがパンや冷食を買ってきてくれたから助かったわ」
「パスタくらいならゆでられる。レトルトのソースもあるし」
「それくらい母さんがやるわよ。二階で学校の準備をしておいたら?」
「うん」
ぼくがキッチンを出ようとしたとき、母さんが呼び止めた。
「気にしていることがあるなら言って。良真」
「べつに……」
「いやねぇ。気になるじゃない。何よ?」
鍋を取り出しながら、いつになくしつこく答えをうながした。
きっと母さんは、気に病んでいる。ぼくが学校で受けたイジメ被害が曖昧なままで終わらせなければならないことを。イジメに気づけなかった罪悪感があって、だからこそ今度は、ちゃんと打ち明けてほしいと願っているんだ。
「ちょっと、母さんが聞いているのに……隠し事? またハチャメチャなことをするつもりじゃないでしょうね?」
母さんが鍋に水を入れ始める。水道の水音がいやに大きく聞こえた。
「ハチャメチャなライブ配信?」
軽くふざけてぼくは笑ったけど、母さんは真顔だった。ひどく心配している。その心配を取り除かなくちゃいけないなって思い直す。だから、ちょっと深呼吸した。
「じゃあさ……思い切って質問するよ……。イエスとノーだけで答えて。もし、母さんが答えたくないなら黙っててくれていいけど」
「なぁに? 言いなさい」
鍋の中に水が満たされていく。じゃあじゃあという水音と窓辺から差し込む夕日の色がステンレスのシンクを染めはじめていた。
ぼくはゆっくりと深呼吸した。
「父さんは、死んでしまったと思う?」
顔色が白くなった母さんの表情からは一切の感情は読み取れなかった。鍋の中はすでに水でいっぱいになって、表面張力でふちまで張り出したと思った瞬間、水があふれだして流れていく。母さんはそれでも、レバーを動かそうとはしなかった。ただじっとぼくを見つめていた。
「父さんをバンに乗せて連れ去った猫島藤成は『殺した』と証言したよね。でも遺体は見つからない。母さんはどう思っているの?」
不意にくるりと背を向けるなり、母さんがレバーを動かした。蛇口から水が止まる。
広げた布巾の上に鍋を置き、鍋底の水分をぬぐうと、それをコンロの上に移動させた。
「ちょっと早いけど、パスタをゆでちゃおうかな」
「やっぱりぼくがやろうか? 鍋、重いよ」
「ノーよ」
穏やかな口ぶりで母さんがささやいた。目の奥はやさしく笑っている。
「遺体は見つかっていない。だったら生きている可能性があるということ。連絡できないのは、ショックで一時的に記憶をなくしている可能性だって」
ぼくと同じ考えだ。父さんは生きている。あくまでも憶測だし、カモシレナイという仮定形だし、妄想だと誰かが決めつけるとしても、ぼくと母さんの心の中では父さんは生きている。いつか、戻ってくる。
遺体が発見できないということが、死んではいないという『暗号』だと信じずにはいられない。
「帰ってきたら、きっと父さんはぼくのしたことを知って驚くだろうね」ちょっと肩をすくめた。「叱られたら、言ってやるんだ映画のセリフを『悪いヤツには天罰を』って」
被害を受けたから仕返しする……ここに復讐という名の正義が発生する。ということはその仕返しの規模のやり方によっては、やり過ぎはよくないとか、立場や見方を変えれば、いくらでも自分勝手に正義って振りかざせるという理屈にもなる。
正義って曖昧なものなんだな。
じゃあ、真実って……?
真実もまた、人の立場や思い込みで変化するんだろうか?
「悪いヤツには天罰を……か。それなんていう映画?」
「忘れた」
コンロのスイッチが入る。水が沸くまで時間がかかるだろう。ぼくは何も言わずにキッチンを出た。インターフォンが鳴ったから。こんな話しを聞きつけて、父さんが帰って来たんじゃないかって想像する。
玄関のドアを開く。
緑川さんが立っていた。
「こんにちは」
ぼくと目が合うと、照れたように緑川さんは前髪をちょっと押さえて両サイドの髪の毛をしきりに耳の脇にかきあげた。
「うん、こんにちは」
ぼくはなんとなく目を伏せてしまった。
たったいま考えていた正義とか真実だとか、緑川さんを前にすると、もうどうでもいいような気がしてくるから不思議だ。
目を伏せると、キャメル色のコートのすそからデニムのスカートがのぞき、細いすねがすらりと伸びているのが見えて、ますますバツが悪い気分になる。足をのぞき見したいわけじゃないのに、女の子のきれいな足が気になるなんてどうかしている。ぼくはバカかもしれない。
「ごめんね」
「ありがとう」
ぼくと緑川さんは同時に言葉を口にした。
実際にはほんの十日くらいなのに、ぼくは緑川さんととても長い間会っていない気がしたし、緑川さんが何を「ごめんね」と言ったのか分からなかった。
「病院にお見舞い行けなくて、ごめんね」
「そんなこと、謝らないでよ。緑川さんが台風の日にウチに電話してくれたって警察の人から聞いたよ。だから助かったんだ。緑川さんは命の恩人だよ」
早口に言ってしまった。もっと落ち着いてお礼を言いたかったのに。
「恩人なんて、大げさ」
口元からちょっと前歯をのぞかせて、緑川さんが目を細める。
リビングの方向から母さんが「お客さんは誰?」と不器用な足取りで現れた。
「この子が緑川夏子さん。ウチに電話をかけてくれた」
「まあ。あなたが」息を吸い込み、母さんが緑川さんに深々と頭を下げた。「本当にありがとう。あなたのおかげで助かりました。落ち着き次第、ご自宅へ伺ってきちんとお礼させていただきますね。良真とはいい友だちでいてください」
「あ、はい。……あの、怪我をされているんですから、どうぞ気にしないでください」
大人から丁寧なあいさつをされたことにすっかり緊張し、緑川さんが赤面している。助け舟を出す気分で、ぼくは「ちょっと一緒に散歩して来るよ」と母さんに声をかけた。
緑川さんとぼくは「灰色の一戸建て」の門を出た。夕日を受けてぼくの家は灰色じゃなくなっていたけど。
並んで歩くのは、あの台風のとき以来だ。
動画を視て、篠田正次らが宮本定克をぼくに突き出して、公園に隠し撮りの三脚の痕跡らしいくぼみを見つけて、黒田圭子を名乗る永沢光江にポルシェに引っ張り込まれたんだ。
要するに、雑念で頭の中がいっぱいだった。ということは、いまは正真正銘の二人きりで歩いているというわけだ。
緑川さんが思い切ったようにこっちを見た。
「わたしね、篠田くんにはっきり言ってやったの。もうバレンタインデーで義理チョコなんかあげない、乱暴な人は嫌いだって」
「……誤解、していたみたいだしね」
「そう」緑川さんがうなずく。「誤解を招いていたのはわたしの責任……。いままで変に気を使っていたのね。わたしが篠田くんとケンカでもすれば、お互いのママたちも気まずくなっちゃうんじゃないかって……。でも、ママもわたしが思うようにすればいいって言ってくれたし、誤解を放っておいたわたしも悪いんだし」
「仕返しとか、されなかった?」
「平気。ぐずぐず文句言われただけ。だからいま、ホッとしているんだ」
「そっか、よかった」
正直のところ、篠田正次が受けた失恋のショックを「いい気味だ」とほくそ笑む気分だ。それ以上に、緑川さんが肩の荷が下りた様子なのが嬉しかった。いままでずっと胸に重い石ころを抱えていたんだろうから。
「明日は、学校へ来るよね?」
「うん」
「あ、ごめん。授業のノート持ってきてやろうと思っていたのに、忘れちゃった」
「謝らないでよ。緑川さんからごめんって言われるたびに、ちょっとドキッとしちゃうからさ」
実際、心配だった。緑川さんの「ごめん」は相手を気遣うやさしさからの「ごめん」なのに、それを性格の弱さから出て来る言葉だと勘違いされかねない。勘違いした連中は一方的に緑川さんを踏みにじり、傷つけてしまうに違いない。
「え、そうかな? ごめ……」
「またぁ」
顔を見合わせて、ぼくらは吹き出した。
福部さんの家の前にさしかかり、隣に「山田」と表札がある空き家を横目で確かめる。
もうガレージにはカバーをかけられた深紅のポルシェはおさまっていないし、あの甘い香水の匂いもしない。ちなみに福部さんは門のところに相変わらず小さなサボテンの鉢を飾っていた。でも、新しいサボテンだ。今度は枯らさないと思う。
なんとなくどちらともなく公園に足を踏み入れた。
イヤな思い出のある公園だったし、やっぱり遊んでいる人がいない寂しい風景だった。
風が背の高い木の枝をざわめかせた。ブランコが揺れている。
「五組の宮本くん、お引越しするらしいよ」
「へえ、急だな」
「うん。お別れ会も開かないなんてって、みんな驚いているの」
「イジメとかあったせいじゃない?」
ぼくはとぼけた。
永沢光江の親族の生徒……。メディア関係者が嗅ぎつけて……。
先生たちが心配している以上に、宮本定克の保護者はもっと心配しているというわけだ。ぼくと母さんへの謝罪を手紙ですませ、あわただしく転居するほど。
転校先がどこかは分からないけど、宮本定克の叔母が『森部五色村ストーカー殺人事件』の犯罪者だということを調べ上げてイジメの口実にする生徒がいるとは思えないし、引っ越してしまえばしつこく付きまとうメディア取材だってなくなるだろう。そう願っている。
「イヤなヤツだけど、新しい学校では楽しく過ごせるといいね」
これは本心からのつぶやきだった。ぼくがひどい目にあったのと同じ境遇に宮本定克が陥ったら大変だ、と思う。正直、どういうヤツであれ、ああいう目にあってほしくない。
「ハロウィンが終わったらクリスマスだよ」
「楽しみだね」
「予定ある?」
どっちの予定だろう? ハロウィン? それともクリスマス? 質問したいのに、ぼくは曖昧に首を振る。
「ううん、特になにも」
ぼくらはそれぞれ相手の言葉を待つような足取りで、ゆっくりとブランコに近づいていた。
「ちょっと錆びているけど、遊べるよね」
ブランコの鎖に手を伸ばし、緑川さんがほほ笑んだ。ぼくは苦笑した。
六年生くらいになると、ブランコに乗ったりしない。
小学校の校庭の片隅にもブランコはある。でも、それは下級生の遊具だ。公園ではもっと小さい子たちの遊具だろう。もし五年生や六年生でブランコをこいで大笑いしているヤツを見たら、子どもっぽいなってあきれちまう。
そういうわけで、もしブランコをこぎいたい気分になったとしても、遊んでいるところを誰かに見られたくない。そんな恥ずかしいところを見られたら、いつまでも小さな子どもみたいだって笑われる可能性がある。
緑川さんも同じ心理状態らしい。共犯者みたいに人差し指を口元に当てた。
「誰も見てないよ。ちょっとブランコこごうよ」
言ってから、すぐに「あ」という表情になった。
「あちこち怪我してたんだよね。痛くない?」
「大したことないよ。もうほとんど痛くないし、明日には絆創膏もいらなくなると思う」
実際、痛くなかった。おまけにびゅんびゅんこぎたい気分になっていた。
「実はわたし、びゅんびゅんこぎたいの」
どこまで気持ちが一緒なんだろう。緑川さんの言葉に、思わず感動してしまった。
「じゃあさ、二人でこごうよ」
「うん、良真くんが座って、わたしが後ろに立つね」
ブランコに腰かけると、背後から緑川さんが乗って来た。ブランコのチェーンに両腕のひじをかけた。
「立ちこぎは任せた」
「うん、じゃあ、行くよ!」
ブランコの真下にある地面のくぼみをスニーカーの底で確かめて、ぼくは緑川さんを背負うようにして後退する。それから勢いをつけて前方へ蹴り出した。空中でタイミングを計り、緑川さんがひざを曲げる。
大きな振り子運動でブランコが戻る。地面に足をつけるとブレーキになってしまうから、ぼくは足を縮めてやり過ごし、再び前方へ蹴り出す。背後の緑川さんがグンと背伸びするように反動をつける。
たいして繰り返さないうちに、ブランコは大きく空へと舞いあがり、空中でチェーンがしない、地面へ戻っては背後へ振り上がり、再び前方へと舞い上がった。
ごおぉうっと耳元で風がうなる。ブランコのチェーンがしなう。また風がうなる。
重力という重力がどこかへ消えて、ブランコが最高点に達する。
緑川さんが歓声を上げた。
「飛んでるみたいだよ! わたしたち」
「すげぇ、無重力!」
空中でほんの一瞬、夕焼け色の空がふわりとぼくらを包みこんだ。
(了)
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