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扶桑国マレビト伝 ⑯

 車輪が砂利を噛んでがたついた。中央区を抜けて、斯波(しば)に入ったらしい。小窓の向こうに田んぼや畑があり、百姓家がまばらにあった。防風用の竹林が葉をざわめかせている。

木立が見渡せる丘の小道を進み、やがて馬車は止まった。

すぐ目の前に『門条』と御影石に掘りつけた石柱と黒い金属製の門扉があった。馬車の御者台から降りた男の人がその門扉を開き、再び馬車を進めた。

玄関へたどり着くまで、石造りのベンチ、写生したくなるようなイングリッシュガーデン、小さな池やコニファーの植え込み、おしゃれな東屋などが見て取れた。

玄関先は広い階段になっていて、そこにやせ型の目つきのするどい年配の男の人がいた。銀色のあごひげをたくわえていて、歳は九十九さんと同じくらいに思えた。

銀のあごひげの男の人は砂色のシャツと黒いスラックスだ。すぐそばに銀ぎつねがいる。風になぶられるたび、銀ぎつねの毛並みが磨かれて輝いた。

少し下がった位置には黒いドレスをまとった銀縁メガネの女の人がいて、肩に白ネズミを乗せている。

馬車が止まると同時に九十九さんが降りた。銀のあごひげの男の人に深々と頭を下げた。

「男爵さま自らお迎えとは恐縮でございます」

うむ、とうなずいた。視線をあたしに投げつけ、すぐ眉間にしわを寄せる。

「蝦夷地から参った山出しの田舎娘じゃな。村井」

「はい」

 メガネの女の人がかしこまった表情であごを引く。

「この者を入浴させ、着替えさせておけ。臭くてたまらぬわい」

「あの、あたし……」

 自己紹介することもできなかった。銀色ひげの人、門条文麿男爵はあごをそらしてさっさと玄関へと移動していく。

「九十九、余子浜での損失状況を会計士がまとめたのだ。わしは目を通した。お前も把握しておけ」

「かしこまりました」

「その件で銀行と打ち合わせがある。すぐ執務室へ参れ」

「はっ」

 九十九さんと銀ぎつねを従えて、文麿男爵は邸内へと入っていってしまった。

取り残され、あたしは呆然とした。

……臭いなんて。いまは夏で、潮風にあたった髪は洗ってない。昨日は体もろくに拭けなかったのは確かだ。それにしても……。

「わたくしはハウスキーパーの村井ゆず子です」

 メガネの女の人が声をかけた。着物の袖を持ち上げ、鼻をすんすんさせていたあたしは目をあげた。村井ゆず子さんが両手をおなかのあたりで重ね、こちらを見つめている。自分の鼻先をながめているようなよそよそしい目つきだ。

「レランマキリです。涼加先生のことで男爵にお話しがあったのです」

これだけいうのに精いっぱいだった。後ろではあたしと九十九さんを運んで来た馬車が移動していく気配があった。二頭の馬のうち、どちらかがたぶん御者台の男の人のマモリガミなのだろう。

不意に心細くなった。

「男爵さまはお忙しいお方です。入浴をすませて洋装していただきます。面会は十五分だけお時間をいただきました。急ぎなさい」

 村井ゆず子さんにうながされ、あわてて玄関へ入る。草履は脱がなくていいという。

広い廊下を冷厳な雰囲気のハウスキーパーに従って進んだ。

 ここで思い出したのは函伊達の孤児院のことだ。あそこも靴や草履を脱ぐ必要がない西洋風の建物だった。斯波にある涼加先生の実家も同じだ。この邸宅の生活様式を孤児院に重ねて涼加先生はなつかしんでいただろうか。それともただ身についた習慣にすぎなかったのだろうか。

 廊下には村井さんと違って一目で使用人と分かる女の人たちがいた。紺色の着物の上に白いエプロン姿で、床をみがいていたり、たたんだ布を運んでいたりした。誰もが沈黙していた。マモリガミたちはハトやネコだったけど、一声も上げなかった。村井ゆず子さんが通ると壁ぎわに身を寄せてうやうやしく頭をさげるけど、笑顔すら浮かべない。

思い余って声をかけた。

「……あの、村井さん。広いお屋敷で、いつもこんなに静かなんですか?」

「当然です。ここは門条男爵家。使用人には規律を守らせなければいけません」

 しゃべってくれたことで勇気が出た。

「帝都とか華族とか知らないことばかりなんですけど……もしかして村井さんは女中頭のような立場なんでしょうか?」

「レランマキリさん」くるっとハウスキーパーがこっちをむいた。「ハウスキーパーとは家政一般の管理をする使用人です。一族に仕える執事より格下と思われがちですが、屋敷の女主人の代行者でもあるのです」

「そうですか……」

 曖昧にうなずくあたしを村井さんはとんでもない世間知らずの田舎者だと判断したらしい。

 脱衣所まで案内し、浴室への引き戸を指さした。

「髪を洗うのは米のとぎ汁ではありません。帝都シャボン社の花の香りがする洗髪用洗剤、シャンプゥが用意されています。体を洗うのはぬか袋とシャボンの両方がありますから、お好きな方をお使いなさい。タオルはこちらに」

 棚からカゴを降ろし、ふっくらとした白いタオルを示した。あたしは講(こう)宿(やど)で顔を洗ったときの手ぬぐいをたもとから取り出した。たもとはちょっと湿っていた。

「いえ、自分の手ぬぐいを使いますから、おかまいなく」

 露骨に顔をしかめられ、あたしはひるんだ。

「いけません。いま身に着けているすべてと、その手ぬぐいは洗わせますからこちらの桶に」

「あの、この着物は、涼加先生が蝦夷地でとても気に入って身に着けていたんです。だからあたし……もし、男爵がおいやでなかったら、この着物でお会いしたいんですが……」

 たどたどしく訴えたけど厳かに首を振られた。

「洋装は下着も違いますから、戸惑うかもしれませんね。沐浴がすんだらこちらの真新しい下着を身に着けて、このドレスをまとってください」

 胸にいくつもボタンがついた白いドレスがすでに用意されていた。薄紫色の細い帯で腰を締める意匠だ。函伊達の港町でときどき外国の女の人を見かけていたけど、まさか自分が洋装することになるとは思ってもみなかった。

 下着の身に着け方やドレスの袖の通し方を説明すると、村井ゆず子さんはメガネのつるをそっと持ち上げてから「近くにいますから、何か分からないことがあったら声をお掛けなさい」と脱衣所を出ていった。

 浴室は総ヒノキの四角い一室だった。小刀と金色のチョークは脱衣カゴに置きっぱなしにする気にはなれず、裸になったあたしはタオルと一緒に浴室へ持ち込んだ。湿ったひのきの香りが全身を包む。

 お湯はちょうどいい温度だった。

木の手桶で浴槽の湯を汲みだし、頭からざぶりとかぶった。好奇心からぬか袋は使わず花の香りがするシャボンとシャンプゥを使ってみた。少しもむと信じられないくらい泡がたつ。

 髪を洗い、顔をこすり、肩からおなか、背中と洗っていった。特に足の指の汚れを入念に落とした。

あとはざぶざぶと湯桶で身体にお湯をかけて流していく。湯桶に入ると、ようやくくつろいできた。といっても、すぐ身だしなみを整えて男爵と面会しなければならない。そのためにここへ来たんだ。

タオルで全身の水分をぬぐい、脱衣所で言われた通りに洋装用の下着を身につけた。それからドレスを。と言っても、ボタンをはめるのに手間取った。いままでもんぺか着物しかまとったことがなかったのだから。

薄紫色の帯……洋装ではサッシュベルトというらしい……に金色のチョークとシクヌの小刀を差した。

「……あの、着替えました」

 声をかけながら脱衣所の戸を開いた。廊下に椅子があって、そこに村井ゆず子さんが座っていた。

立ち上がり、メガネをキラリと光らせ、あたしの洋装をじろじろとながめる。それから袖のあたりのしわを伸ばし、サッシュベルトからシクヌの小刀を取り上げようとする。あわてて手で押さえ、一歩退いた。小刀を奪われたら、その影に隠してある金色のチョークが人目についてしまう。

「やめてください、これは大事な物なんです」

「武士の娘でもありまいし」気難し気に村井さんは首を横に振った。「見事なシクヌの細工がほどこされていても刃物は刃物。武装した娘を男爵さまに近づけるわけには参りません」

「あたしが危害を加えるとでも?」

「しきたりです。身分ある者は常に警戒を怠ってはならぬと言いつかっております」

 なぜかこの小刀で野ウサギをさばいた諸見沢くんの姿を思い出した。あのとき諸見沢くんは感動してくれたんだ。すごい細工だ、見ているだけでわくわくする……と。

「この小刀はあたしにとってマモリガミなんです。どうか理解してください」

 一瞬、村井さんは息を飲んだ。ほとんど無表情だったけど、確かにメガネの奥で瞳が揺れた。

「……分かりました。そうおっしゃるなら勝手になさい。もし、男爵がご不快になられてもわたくしはあなたをかばいだていたしませんよ」

 あたしは村井さんにうながされ、廊下を案内された。いったいいくつ部屋があるんだろう。

 換気のためドアが開かれてあったから、通り過ぎるまで無人の室内をそっとのぞきこむことができた。どれも洋室で窓枠に筋目が彫り込まれてあり、壁紙は花模様や唐草模様が入っていた。

足元の廊下は敷物が敷かれてあったり、敷かれてなかったりだ。むきだしの床材は木肌の色と木目の違いを使って組木細工みたいな意匠がほどこされてある。

村井さんに続いて角を曲がったとき、甲高い女の声が聞こえた。

「許さなくってよ! 岩麻呂さま」

 ぴたりと足を止めたハウスキーパーにならい、あたしも立ち止まった。そそくさと廊下の壁際へと彼女が誘導する。今度は男の声だ。

「跡継ぎのいない文麿伯父はぼくのことを受け入れても、落ち目の君の実家の面倒まで見るわけがないんだよ。だいたい里美、この婚約は時代遅れだ。いまどき家同士の取り決めで伴侶を選ぶなんて」

「いやよ! そんなこと、許さないわッ」

ばたばたと一室から誰かが飛び出してきた。縮れた黒髪に赤いザリガニを飾った若い女の人だ。あたしより少し年上に見える。続いて背の高い端正な顔立ちの男の人が現れた。黄色いカナリアがその人の周囲を飛び回っていた。

メガネのハウスキーパーが腰をかがめ、頭を下げた。あたしもそうすべきかなと思ったけど、女の人の髪から目が離せなかった。右側頭部から首筋へとザリガニが移動している。そのザリガニを右手で受け止め、女の人はあたしをにらみつけた。

「村井、その者は誰?」

「こちらは涼加お嬢さまゆかりの者です」

「レランマキリです」自分で名乗った。「涼加先生に育てていただきました」

 赤いザリガニをマモリガミに持っている女の人が苛立たし気に髪の毛をかきあげた。

「そう。涼加さまについては新聞で読みましたわ。蝦夷地に隠れ住んでいらしたそうね。わたくしは藤ノ原里美。こちらは門条文麿男爵の甥で門条岩麻呂さまよ」

 カナリアを肩に乗せた背の高い男の人がうなずいた。ほほ笑まれて、思わず胸がドキドキした。

「あの……門条、ということは、涼加先生とは従兄弟?」

「歳は離れているけどね」鷹揚に岩麻呂さんがうなずく。肩の上でカナリアがさえずった。「涼加さんが亡くなったことがはっきりしたから、いずれ爵位も伯父の事業もすべてぼくが引き受けることになる」

「さあ、参りましょう」

 ハウスキーパーがうながす。二人に会釈して、あたしは歩き出した。背中に岩麻呂さんが声をかけた。

「待った。伯父上と面会するならぼくも同席しよう」

「それなら、フィアンセのわたくしも参りますわ」

 振り返った村井さんがちょっと眉根を寄せる。あたしに対してじゃなく、岩麻呂さんと里美さんに。

「予定のない面会など男爵さまはお許しになりません」

「そうはいかないわ」刺々しい調子で一歩踏み出したのは里美さんだった。「岩麻呂さまは伯父と甥の関係よ。それにわたくしは三歳のときに岩麻呂さまと結納を交わした間柄。家同士の約束事とはいえ、この縁談を破談にするとはどういうことですの? きちんと男爵からご説明いただきたいわ」

 語尾を吐き捨てるまでに、里美さんは村井さんを追い抜いている。

 村井さんが大きなため息をつく。

「相変わらず押しの強いことでございますね、里美さま。困ります」

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