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扶桑国マレビト伝 ②

第一章 蝦夷地

 

 ウタリが鼻をひくつかせたと思った瞬間、後ろ足を蹴って前方に跳びだす。砂の混じったひと固まりの風が左ほほにぶつかり、あたしはウタリに蹴られた気がしてハッとした。

自制したけどだめだった。シダが生い茂る大地から、思わず半身を持ち上げてしまった。葉がざわめいたのはそのせいだ。すぐそばで同じく身を伏せて村田銃の筒先を前方に向けていた猟師のベンリウクおじさんがチラと横目でにらむ。蝦夷地シクヌ人特有の彫りの深い顔と大きな目のせいか怖い表情だ。あたしは身をすくめた。

 ごめんなさい、と胸の中でささやいたとき銃口が火を噴いた。乾いたパンという音。茶色い夏毛の野ウサギが二羽、その場に倒れた。

 身を起こすなり野ウサギのそばへ急ぐ。オヒョウの樹皮の繊維でできたもんぺのひざのあたりが露で湿り、肌に触れるたびにひやりとした。

ウタリは前足をそろえ、倒れている小動物に鼻先を近付けていた。三羽の野ウサギのうち、ウタリがマモリガミだとはすぐには分からないだろう。

マモリガミと本当の動物はすぐには分からなくても見分ける方法がある。マモリガミの体には所有者の『影』が必ずどこかに煙のようにまとわりついているのだ。

本物の野ウサギ二羽はつがいであったのかもしれない。自分たちの縄張りにウタリが侵入したため、いっせいに巣穴から飛び出したのだ。それが罠とも知らずに。二羽が横並びになった瞬間、シダの茂みからベンリウクおじさんの銃弾が一直線に飛来した。最初の野ウサギの首筋を貫通し、その勢いのままもう一羽の野ウサギの頭部に噛みついたのだ。

かわいそうに、とまだ震えている温かい獣の体毛をなでてやりたい気持ちはあるものの、そんな感傷などすぐに消し飛んだ。

「約束通り、一羽はあたしがもらっていいのね?」

「ああ」のんびりと無精ひげをなでてベンリウクおじさんがうなずく。「マキリ、おめえには弾丸を鋳型で作ってもらったからな。遠慮しねえで持っていけよ」

 あたしがぱっと笑顔になる。ベンリウクおじさんが一瞬どぎまぎしたようだった。

「ありがとう、おじさん。夕食は久しぶりに孤児院で肉入りのシチューが作れる。みんながおなかいっぱい食べられる」

 ウサギの耳を二羽ともつかみあげると、ずしりとした持ち重りする手ごたえに満足と安堵感が胸に満ちた。

二羽とも用意しておいた麻袋の中に入れる。中にはすでに死んだアナグマが入っていた。獲物三体でふくらんだ麻袋の口を紐でしばり、あたしは肩に背負った。

「猟師小屋まで運ぶから」

「野ウサギ二羽とアナグマ一匹が入っているんだ。重いぜ」

 日焼けした手をベンリウクおじさんが差し出したが、あたしは首を振った。

「いいの、手伝わせて。おじさんは村田銃の他に山刀や杖、火打石だって腰に下げているんだし」

「いつもの狩猟の装備だ。慣れちまえばどうってことねえ」

 一歩前に出るベンリウクおじさんにあたしは頑固に首を振った。

「ううん。あたしの気が済まないの。銃弾作りと引きかえに、こんなに新鮮なお肉をもらうなんて悪いもの。運ぶ役目を引き受ける」

 おじさんが吹き出した。

「相変わらず律儀なこった、マキリ。わかったよ、小屋で内臓を抜いてやらあ」

「いつもありがとう」

 ウタリ、と呼ぶとベンリウクおじさんの影を尾にまとったマモリガミが、長い耳を振りたててそばにやって来た。

「おれのマモリガミがウサギでなかったら……たとえば猟犬とかイヌワシだったら、一人でもっと大物が仕留められるんだが」

「本格的な猟の季節は冬なんでしょ?」

「ああ、見通しの悪い藪が雪で覆われれば、獲物を見つけやすくなるからな。仲間と組んでヒグマを巻き狩りする冬が待ち遠しい。猟師仲間は犬や猛禽類をマモリガミに持つ者が多いんだ。おれのマモリガミが野ウサギの姿なんで、『獲物と間違えちまいそうだ』なんぞと舐めた口をきくヤツもいるがな」

「ウタリだってすごいマモリガミだよ。すばしっこくって頭がいいし……。あたしにもマモリガミがいたらなぁ……」

 おじさんはれっきとしたシクヌ人だ。シクヌ人としてベンリウクというのが親からもらった名前だけど、扶桑国新政府が蝦夷地土人矯正法で姓名を改名させられたという。それで近くの永坂開拓村にちなんで役所には「永坂恵三」と届けている。

 しばらく歩くと、やがて背の高いクマザサの一帯にさしかかった。ほとんど道はない。たくみに杖を使ってクマザサをかきわけ、道を作りながらベンリウクおじさんが進んでいく。そのあとをあたしが必死について行く。杖でなぎ倒されても、茎の固いクマザサはすぐに立ち上がってしまう。五尺四寸の身長があるあたしだけど、茂みの中ではほとんどこぐように歩かねばならなかった。

「北は蝦夷地から南の筑紫までが扶桑国の国土。古代の扶桑人がマレビトから魔よけとしてあたえられたのが、獣の姿のマモリガミだ。一生涯の相棒よ。おれのは野ウサギのウタリ。あんたが育った孤児院にいるガキどもだって」

「桃子ちゃんと康夫くん」

素早くあたしが名を告げる。

背負った麻袋の重みを支え、視野を覆う背の高いクマザサを左右に分けて進むベンリウクおじさんの背中を見失うまいと必死だった。足がふらつき、背中で荷物がゆれる。もっとゆっくり歩いてほしい。そう口にしかけては言葉を飲み込む。懇願するのはいやだった。足手まといだと思われたくない。これくらいで音を上げるのか、やはり女を猟場に連れて来たのが間違いだったと笑われたくない。

「ふむ、確か……桃子って子には三毛猫のトペムペ。康夫にゃアライグマのイワンケがいたな」

「うん」

歩む先に邪魔するものが何も無いかのように猟師の声色はのびやかだった。ベンリウクおじさんの影をまとっているウタリもまた、そのあたりを走っているのだろう。あたしがたてるクマザサを踏み分ける物音に、野ウサギの姿をしたマモリガミが軽いかすかな足音を紛れこませてくる。

 トペムペはお菓子、イワンケは元気、そしてウタリは仲間という意味がある。どれも蝦夷地に古くからいたシクヌ人の言葉だ。

扶桑国はいくつかの島で成り立っており、もっとも大きいのが本州だ。本州の扶桑人と蝦夷地に暮らしてきたシクヌ人、筑紫の島に古くからいるハヤテ人とは言葉や風俗が違っている。それでも影の中からマモリガミが発生するのは同じだった。

でも、あたしにはマモリガミはいない。

「ベンリウクおじさん、もしかして孤児院のために無理に夏場の猟に出てくれたんじゃないの?」

「おれはそれほどお人よしじゃねえよ」

 ぶっきらぼうに返された。それがむしろあたしに気を使わせまいとする思いやりなのだと感じる。

「マモリガミ……どうしてあたしにはいないのかな」

 物心つくころから不思議に思っていた不安がつい口を突く。

「蝦夷地の子だけじゃなく、この扶桑国の人ならマモリガミがいるはず……。扶桑人の妊婦さんが外国で赤ちゃんを出産しても、マモリガミが現れたって新聞に出ていたのに」

 改めて口にすると、なじみ深い心細さに心臓がきしむ。自分にはどこにも居場所はないような気がする。

 背の高いクマザサの向こうでベンリウクおじさんが振り返った気配がした。

「そりゃあおめえ……異国の人の血が濃いからだべ。鏡を見てみろ。たっぷりとした黒髪はきっとおれと同じシクヌの血だ。それにその背の高さ。……おめえの紫水晶みてえにきれいな目の色は、北の大帝国・ルーシ人の血筋だとみんな言ってんべ」

「みんなって……」

 問い返すまでもなかった。

……ほら、折原涼加(おりはらすずか)が営む函伊達(はこだて)折原孤児院で成長したマキリだよ。西洋館でひっそりと一人暮らしをしていた涼加の玄関先に、あの子は捨てられていたんだとさ。あの子を育てるため、折原涼加は自宅を孤児院にした。身寄りのない孤児、育てられない我が子を連れてくる者が、涼加のもとを訪れた。孤児たちを引き取って食べさせ、眠らせ、しつけし、教育し、里親を探して涼加は子どもたちを幸せにしてやったのさ。

……だけど、あの子、マキリをごらん。いつまでもあの孤児院に残っている。

……だって、マモリガミがいないんだからね。薄気味悪いよ。扶桑国でマモリガミがいないなら、影鬼として生まれてきたということだ。影鬼に襲われて自分のマモリガミを滅ぼされた人間は、食われなければ石像みたいに固く動けなくなってしまうはずなのに。マキリはどうして影鬼じゃないんだろうね? いつかは影鬼になってしまうのかな? それとも、あの子の体にはルーシ人の血が濃く流れているからマモリガミがいないのか?

……武士階級に支配されて異国との交易を拒んできた扶桑国が内戦を克服して開国し、多くの港町には異国の船で舶来品が入って来た。蝦夷地函伊達港も例外ではない。異国の船員たちや商人たちが港町の遊女を買い、混血児が肚に宿る。マキリもきっとそういう混血児の一人なのだろう。間引きしきれず捨てられたのさ。シクヌ遊女とルーシ人の血が、マモリガミを発生させないに決まっている……。

 周囲でささやかれる自分についてのもっともらしい当て推量にぶつかるたび、あたしは寂しさと不安にさいなまれた。マモリガミがいないということは、いつかあたしは、人食いの影鬼に変身してしまうかもしれない。

 孤児院の折原涼加先生が自分の本当の母親だったらどんなによかっただろう。あなたは捨て子なんかじゃない、本当はわたくしの血を分けた娘なのですよ……そう告げてくれたら救われるのに。

 でも実際は玄関先に布でくるまれて置かれていた赤ん坊だ。

それはある風の強い朝だったという。小刀がそっと添えられていた捨て子。風と小刀にちなんで涼加先生が「レランマキリ」と名付けたのだ。シクヌ人の言葉で「風の小刀」と。

本当の母親がどういうつもりで柄と鞘にシクヌ文様の刻みがある小刀をあたしに託したのか。守り刀のつもりだったとしても、捨てたという事実は変わらない。それでもあたしはその小刀をいつも持ち歩いている。捨て子だったという証拠品を。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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