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すべてはヒッチコックから

 その日が何曜日だったのか。なぜ一人留守番をしていたのか。記憶していない。
 覚えているのはとてもどんよりとした暗い空模様で、そういう天気の時にありがちな、無気力な午後だったということだけは確かだ。
 おやつを食べる気にも、塗り絵や読書をする気分にも、ましてや宿題をする気にもなれなかった。
 だるさをまぎらわそうと、テレビのスイッチを入れた。
 ブラウン管に画面が浮かぶ前に悲鳴が流れ出た。
 テレビに映ったのは殺風景な洗面所らしい場所。背中に金髪を流した若い女性が、下着姿で衣服についた赤いインクをごしごしと洗っている。
 それが映画『マーニー』との出会いだった。
 当時も今も、昼過ぎに洋画番組が放送されている。地上波の午後のロードショーだ。
 主演はティッピー・ヘドレンとショーン・コネリー。
 監督はアルフレッド・ヒッチコック。
 当時小学生だったわたしは、途中からの視聴だったけれど充分楽しめた。というか、衝撃的だった。チャンネルが切り替えられなかったし、スイッチを切るなど論外だ。

 赤い色に対し、異常なほど拒絶反応を示す盗癖のある美女。
 彼女を愛し、強引に結婚する男性。
 なぜ彼女は「赤い色」にこれほど怯えるのか?

 いわゆる「幼児期の心の傷」を取り上げた物語が初めてだったし、大人の男女の恋愛も、なによりも本格的なミステリー仕立ての映画も初めてだった。
 もともと、東映マンガ祭りやディズニー映画のようなアニメは嫌いではない。けれど、7歳で叔父に映画館に連れられスピルバーグ監督の「ジョーズ」を観て以来、もっと別の刺激を欲していたのかもしれない。

 少々脱線するが、映画音楽に「その映像がすぐに思い浮かべさせる力」があると気づかされたもの「ジョーズ」だった。
 夜の海で泳ぐ女の人がサメに海底へ引き込まれるシーン、海の男三人が船内でたわいもない、しかし友情を温め合う会話、3トンはあるであろう巨大なサメが船を破壊するクライマックス。などなど、あの曲を耳にするだけで映像がよみがえる。……けれど、当時はエンターテイメントの中に社会派のメッセージあることも、ヒューマンドラマであることも、理解してはいなかった。

 そして出会ったのが『マーニー』。
 謎の美女、盗癖、不本意な初夜、赤い色への怯え、娼婦、殺人、トラウマ……。
 映画は未知の世界を示唆するだった。
 もっとも、昼下がりの時間枠で放送される洋画のせいか、まだろくに新聞も手に取らない年齢であったせいなのか、そのときは映画のタイトルも監督名も分からなかった。
 ただ、その映画の放射力のようなものはずっと心に残っていた。
 数か月して、またしても同じ時間枠で『マーニー』が放送された。
 このときは母も一緒で、説明してくれた。
「これはヒッチコック映画だよ。アルフレッド・ヒッチコック、面白い映画をたくさん撮っている監督」
 どこの家にもビデオデッキなど考えられないころで、当然近所にビデオレンタル店など無い。
 映画を観たければ映画館へ行くか、新聞のテレビ欄をチェックするか、書店に積まれている映画雑誌『ロードショー』『スクリーン』などから情報を得るしかなかった。
 ネットでありとあらゆる情報が引き出せる現在では、考えられない不便さかもしれない。
 けれど、そういう映画情報への飢えや、放映を待ちわびる葛藤、偶然出会った映画への愛着、再放送してくれる放送局への感謝といった気持ちを味わえるのだから、ある意味では至れり尽くせりなネット社会の便利さとは一味違った豊かさがあったかもしれない。
 やがて週末の洋画劇場で「ヒッチコック特集」が組まれた。
 鳥、サイコ、北北西に進路をとれ、裏窓、めまい、ハリーの災難、ダイヤルMを回せ……
 かといって、ヒッチコックならばなんでもイイと思っていたわけではない。
 後期の作品……冷戦時下のスパイをテーマにした作品はポール・ニューマン主演だったにも関わらず、「それほど」とは思わなかった。ネクタイを使った殺人者のスリラーもあまり感心しなかった。
 ビデオレンタル店の常連客となり、映画ファンの愛好会で名画の自主上映会にも参加するようになり、ヒッチコック映画だけでなく、アガサ・クリスティー原作のミステリー映画やジョン・ヒューストン監督作品にも触れて、目が肥えたのかもしれない。

 ネットで映画が配信されるようになり、ビデオレンタル店も数少なくなった。いまでは時代劇や映画専門チャンネルもある。アマゾンプライムビデオではほとんどの映画が視聴できる便利さだ。

 NHKでヒッチコック映画「鳥」が放送され、なつかしさから録画した。暇そうな子どもたちに「視てごらん」と勧める。
「古い映画なんて、だるいに決まっている」
 最初は不承不承だったにも関わらず、息子たちは愕然として最後まで液晶画面から目を離さなかった。
「怖いけど、面白かった」
 普段、きれいな新作アニメばかりを楽しんでいる子ども世代にも、ヒッチコックは通用するらしい。
「映画『鳥』は環境汚染のテーマが隠されていて……」
 などと野暮な口ははさむまい。素人のうんちく臭い解説など無用だ。
 ただ映画を楽しんで、感動の余韻を尊んでくれればいいのだから。

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