探偵になるまでの2,3のこと ⑨
あまりに唐突だったせいで、背筋がびくっと震えた。ぼくも母さんも、思わず顔を見合わせた。
警察や勤務先の病院からであれば、母さんのスマートフォンにかけてくるだろう。ほとんど固定電話は使っていない。すぐ留守番電話に切り替わるように設定されている。
それでもスマートフォンを与えられていないぼくにとって、この白い固定電話は重要な連絡アイテムだ。以前は友だちとよくおしゃべりしたものだ。でもいまは、友だちがぼくに電話してくるとは思えない。
「きっとリフォームとかの電話だよ。もしくはイヤガラセかも」
「……良真の学校の先生からかもしれない」
小学校に話しをしに行く、とさっき口にした母さんだ。
「イジメについて状況を聞き取るため、学校からかかってきたのかも」
そう言われると、福部さんが思い浮かんだ。あの人が本当に通報して、折り返し文星小学校から確認の電話がウチに来たのかもしれない。
いや、だけど……それなら母さんのスマートフォンにかかってくるはずじゃないのか?
ぼくより先に母さんが受話器を取った。
「……もしもし」
会話は聞き取れなかった。
通話している母さんの背中がこわばる。小学校の先生じゃなさそうだ。リフォームとかネット回線のPR電話でもない様子だ。相手は誰だろう。
「そう……。いえ、こちらこそお世話になっております……」
不安がぼくの胸をふさぐ。イライラした足取りでテーブルを回りこみ、ぼくは通話している母さんのそばに立った。そのまま背伸びして耳をすませる。母さんは少し困ったように眉間をくもらせ、自分の身体をそむけて受話器とぼくとの距離をとろうとした。
相手は誰? 問いただしたいのをグッとこらえ、ぼくは無駄だと知りつつ耳をそばだてた。
「……それを、警察には? まだですか。……わかりました。すぐうかがいます……」
会話はほんの数分くらいだった。
受話器を置くと、深呼吸して母さんはやっとこちらを見た。
「良真、……用事で出かけることになったから……」
「え、用事って?」
浮足立っている母さんを前にして、ぼくの不安は大きくなった。
「電話は誰から? ぼく留守番?」
「黒田圭子さん。鷲尾麻美さんが豊田久巳のストーカーで悩んでいたとき、父さんと一緒に問題解決のために働いていた」
「物流センターの人?」
「ええ、係長を勤めている人よ。折り入って話があるということなの」
ごくりと唾を飲みこむ。
「まさか、父さんの居所が分かったんじゃ……」
「……そうだといいけど」
眉をひそめた表情のまま、母さんがつぶやいた。そのまま出窓のカーテンをそっとめくる。ぼくも並んでたそがれ色に照らされた門扉をながめた。そこには誰も認められなかった。
母さんはぼくに顔を向けるなり、せかせかと言った。
「ちょっと坂の下にあるコンビニまで行ってくるから、良真はここにいてね」
「電話で呼び出し? コンビニって『チャンスマート』?」
「ええ、そう」
時計を見ると午後五時二十五分とデジタル表示がされていた。もう少ししたら街灯がともるだろう。
坂の下のコンビニ『チャンスマート』までは大した距離ではない。
「黒田さんが言うには、『ネットでひどいことが流されているから、会社でもその善後策のために打ち合わせの必要がある』のですって。会社に呼び出す前に、『個人的に話しをしておきたいからコンビニの駐車場で待ち合わせしましょう』って」
父さんの会社が動いてくれる。心強い励ましを受けた気分が胸に拡がる一方で、ぼんやりとした不安もあった。どうして母さんを呼び出すんだ?
「忙しい合間を縫ってやっと時間を作ったらしいの。渡したい書類があるんですって。……事件に関わる、重大な書類が……」
「それなら家に来てくれればいいのに」
言いながら母さんは二階へとあがっていった。
降りて来た時にはグレーのワンピースから黒のカプリパンツとオフホワイトのブラウスに着替えていた。その上にカーディガンを羽織る。バッグにスマートフォンを放り込み、サッと髪をなでつけてから玄関へと向かう。
「心配しないで。すぐそこだからね。……お弁当でも買ってくるから」
見送りに出たぼくを安心させるためとしか思えない、小さな微笑みを浮かべて出ていった。
七時まで、ぼくはアイパッドでゲームをして過ごした。テレビをつけるとちょうどアナウンサーが『和歌山湾岸倉庫近くの交差点で無差別殺傷事件』を告げていた。
和歌山の地名に敏感になっていたぼくは耳をそばだてた。
それによると猫島藤成という三十代の男が通りがかりの会社員に「足を踏んだ」「踏まない」で口論になり、鼻の骨を折るほど殴りつけて腹部を蹴ったという。それだけでは足らず、隠し持っていたナイフでそばにいた親子連れに切り付けた。幼児をかばった母親を刺し、駆け付けた警官にその場で逮捕されたという。被害者の会社員は病院に搬送されたけど命に別状なく、刺された女の人は亡くなったと告げていた。
テレビを消した。
少しイラついていた。空腹のためか、不安感が持ち上がっている。すぐそこ、お弁当を買ってくる、それを信じて待っている自分がものすごくマヌケに思える。
母さんは戻らない。
固定電話からスマートフォンに電話してみる。母さんのスマートフォンは充電がほとんどないのか、コール音がぶつりと切れて留守電に切り替わりもしなかった。
仕方なく、ぼくはキッチンに入って棚をあさった。
しばらく母さんが買い物に出なかったせいで、ろくなものはない。
レトルトの米飯、カップ麺、缶詰の白桃。
ぼそぼそと食事をし、白桃の最期のひとかけらをフォークで突き刺して口に放り込んだ。
ゲームをするか、アニメを観るか……。
どちらもその気になれない。テレビも面白くなかった。
再びキッチンへ入り、インスタントコーヒーのビンを食器棚から取り出した。それから大きなネイビーブルーのマグカップを。
無骨なマグで、取っ手の部分もゆがんでいる。陶器のあちこちはでこぼこだ。口をつける部分も薄くなめらかであるはずもない。
それでも、このマグは思い出がある。
去年の夏休みに家族旅行して、ろくろ体験でぼくが父さんのために作った品だ。
粘土をこねて成形し、窯元の人に色の指定をした。深い海を思わせるネイビーブルー。
とても暑い夏で、固い粘土をこねているあいだ、ずっと額も首筋も汗まみれだった。
仕上がるまですごく楽しみにしていたマグカップだ。
思い切ってインスタントコーヒーをマグに入れた。いつもなら砂糖と牛乳を入れるけど、ブラックにするつもりだった。
湯気のたつマグを手にダイニングテーブルにつく。
アイパッドを引き寄せて電源を入れた。いくつかネットチューブの動画を観た。
ネットチューブ内のコンテンツはさまざまで、世界中にユーザーがいる。本職のお笑い芸人でもないのに趣味で自分たちの動画を撮ってネットチューブに投稿し、観る人を面白がらせて再生回数をあげているコントのグループもいる。
生活に役立つさまざまなノウハウ、バンジージャンプの実況中継、あるいは自作の歌を映像付きで流す人もいれば、ペットの日常動画を投稿する人もいる。短いアニメーションを作成して投稿する人も。
コンテンツを投稿する人は日本人だけじゃない。視聴する人も人種や国籍はさまざまだ。
そうした動画コンテンツの人気が出て登録者数やフォロワーが増えれば、動画を投稿した人に広告料金が支払われる仕組みだ。ネットチューブへの投稿者は「ネットチューバー」と呼ばれていた。フォロワー数が多い人気のネットチューバーなら、莫大な広告収入で楽しく暮らしている人もいるらしい。
撮影し、編集し、ネットチューブへアップロードすることを最近ではスマートフォン一つでできる。
そういったことを、ぼくはちょっと勉強している。いつかネットチューバーになろうって思っているわけじゃないけど。
アニメも少し流した。
結局、どれも集中できない。
電源を切ってアイパッドをチャージャーに接続し、充電した。
ネイビーブルーの父さんのマグでコーヒーを飲んだせいか、胸やけがした。
上の空で歯を磨いたときには、九時半を過ぎていた。
玄関を出て闇に染まる道路を見渡した。右を見ても、坂の下を見渡しても、母さんらしい人影が現れることはなかった。
「ったく、どこまで行っちゃってるんだよ」
しょうがないなぁと冗談めかしくつぶやいたのは、自分の不安をごまかすためだ。
ジャージのスエットスーツ姿だったけど、そのままぼくはコンビニへ行くつもりになった。
中古住宅のぼくの家は玄関のドアノブの上下に同じ鍵を入れて施錠するタイプだ。
ぼくはちょっとした外出なら上の鍵穴にしか施錠しない。
いつもの習慣で、上の鍵穴だけを施錠するとドアノブに手をやって鍵がかかっているかを確かめた。
それから家の北側の外壁にたてかけた自転車を引っ張り出す。
坂道で自転車を転がしてみると、爽快な風になった気分だ。帰りにはこの自転車を引いて母さんと並んで坂道を上らなければならないんだよな、とそのときの様子を胸の中で思い描いた。
あのイヤな公園の前を抜け、福部さんチの前を過ぎる。
福部さんの隣の「山田」家のガレージにはあいかわらずカバーのかかった車があって、ほのかに甘い匂いがした。
やっぱりこの家には人が住んでいるんだろう。強い香水を使う女の人が。
坂道を下り終わると、緑とオレンジ色の縁取りがあるコンビニの看板が見えてきた。『チャンスマート』の入り口で白っぽいライトが輝いている。
母さんが呼び出されたのはこのコンビニだ。
自転車を降りて自動ドアのそばに止め、ぼくは駐車場や向かいの二階建ての建物、隣接する歯科医院あたりをきょろきょろした。歯科医院はすでに閉まっていて、中は暗かった。
母さんはいない。
思い切って『チャンスマート』に入る。小さなイートインのコーナー、ガラス窓に面した雑誌の棚、お菓子や文具を並べた通路、パン、弁当のフロアを見て回った。
母さんはいない。
自動ドアが来客を告げる。母さん? と呼びかけそうになるのをこらえ、急いでドアの前に出ると大学生くらいの女の人が入って来たところだった。
「いらっしゃいませ」
レジで『チャンスマート』のシンボルカラーが入った制服姿のメガネをかけた男の人がお客さんに呼びかけ、ついでのようにぼくへ声をかけた。
「ねえ君、どうかしたの?」
不審の色がなく、むしろその声が柔らかかったせいか、ぼくは打ち明けてもよさそうな気がした。
「あの……母が、こちらに来ていませんか? 五時半か四十分ごろ、電話でここに呼び出されたはずなんです。髪は肩くらいで、カーディガンにパンツルック」
ぼくはできるだけ母さんの身に着けていた洋服やバッグ、髪形を告げた。
「そういう女の人、ここに来たかな?」
首をかしげるレジのおじさんにぼくは言葉を重ねた。
「あ、もしかしたら……駐車場にしか立ち入らなかったかも……」
「うーん、だとしたら……悪いけど気づけなかったよ。行き違いになったんじゃない? 一度帰ってみたら?」
「……はい、そうします」
行き違い。警察署に父さんの「行方不明者届」を出すときも、そう願った。
頭を下げると、メガネのおじさんはぼくをいたわるようにコンビニのドアまで一緒に出た。
「このへんは人通りが少ないから夜道は気をつけないとね。いきなり真っ赤なポルシェがぶっ飛ばして走ってったこともあるんだよ。交通事故にあわないようにね」
「ありがとうございます」
お礼を言い、自転車にまたがった。
ペダルをこぐあいだ、ぼくの頭の中で「ゆ・う・か・い」の文字がぐるぐると回転した。
いいや、そんなことはない。母さんは帰っているはずだ。
ばかだな、コンビニから家まで、この坂道一本だけだ。チャンスマートまでの一本道。行き違いなんてありえない。
じゃあ別の場合を考えてみよう。
ここしばらくお酒と睡眠導入剤で体力が落ちていた母さんだ。コンビニの駐車場でぐったりしたところを、通りすがりの誰かが救い出して直接病院に連れて行ってくれたのかもしれないし……。
希望的観測を胸の中でののしった。
そんなことあるわけないだろ。もし駐車場で母さんを介抱するような善意の人がいたとしたら、レジのメガネのおじさんはきっと気づく。
父さんと同じ会社の人……黒田圭子という女に電話で呼び出されたんだ。
なんだって黒田圭子は家に直接来なかったんだろう?
以前なら、世界にはびこる悪意を疑ったことはなかった。
世の中にはひどいことがあるんだな、と頭では分かっていても、それは自分とは無関係な遠いところに存在すると決めつけていた。小学校から家までの道筋を行き来しているだけで、普通に世界は回っているし、それが明日も明後日も続くと信じていた。
でも、いまはそういう状況じゃない。すでに崖っぷちだ。
ネットでは父さんは犯罪者と決めつけられ、ぼくは犯罪者の息子としてイジメのターゲットにされたんだ。
素直に父さんが犯罪者だというレッテルを受け入れる? 冗談じゃない。本当のケンカになれば、多少は武道の心得があるぼくだ。篠田正次なんかに負けるもんか。それなのに、何度も心をくじかれてあんなやつらにさげすまれる。
公園の向かい側、「山田」の表札がかかっている家に電灯はついていない。それでも風が甘ったるい香りを運んでくる。
その隣の「福部」さんチの玄関先には、相変わらず枯れたサボテンの鉢植えが並んでいた。
やっと三加茂家の「灰色の一戸建て」が見えてくるあたりまで来た。
門扉の前で自転車を降り、サドルをつかんで自宅の北側に引き入れた。外壁に立てかけてから玄関の前に出た。
ふと、違和感があった。
なんだ? 甘い香りがする。
鍵を取り出し、上の鍵穴に差し込んで回した。ドアノブの上下に二つ鍵穴があって、同じ鍵を入れて施錠するタイプ。だけど、ぼくは上だけを施錠したはずだ。
戸惑ったのは、ドアが開かなかったからだ。
下の鍵穴も施錠したかな? いいや、ぼくは上の鍵しかかけなかったはずだ。
「母さん、帰っているの? 帰っているなら開けてよ」
ドアを叩いてみた。インターフォンのボタンも押してみた。だけど、家の中から人の気配が近づくことはない。
自分の鍵をどう動かしたのか、思い出そうと集中した。
最初、ぼくは鍵を右に回した。でも手ごたえはなかったんだ。だから左に回した。
変だなと即座に用心しなかったのは、習慣化された事務的な動作だったせいだ。
つまり、ぼくはいつもの通り開錠するつもりで鍵を動かした。
それがすでに開錠されているとも気づかずに。
だから、わざわざ左に回して施錠してしまったんだ。
ぼくが外出したわずかな時間、この家の鍵を開けて侵入した誰かがいる。
胸の奥で心臓が高鳴る。汗がにじむ。
ぼくは呼吸を整えた。
そいつはいま、近くで息をひそめている。
きっとぼくが警察官二人の話しを立ち聞きしたとき、身をひそめた電信柱とコンクリート塀のあたりだ。
甘い香水の匂い。女? 母さんを呼び出し、ぼくが家を出たのを見計らい、この家の鍵を開けたのは。
「……た、ただいま、母さん、いるんだろ? 返事してよ」
できるだけとろい口ぶりでそう言って、ドアを開いた。ぼくは鈍感で、あんたの存在なんかまったく気付いていない。そう思い込ませるために。
「ねえ、帰っているんでしょ? ぼく心配したよ……。しょうがないな、鍵、自分で開けるから」
家に上がり込んでいたらどうしよう。鍵を扱う指が震えた。だけどその恐れはすぐに打ち消した。もしその気があるなら、身を隠さずにすぐぼくを取り押さえているだろう。むしろ、このまま外にいては危険だ。気づかないふりを通して室内に逃げ込んだ方がいい。
鍵を回し、玄関に入った。素早くドアを閉める。
カチャリと鍵をかけてしまうと、歯を食いしばってしばらくそこに立ちすくんでいた。耳をすます。ぼく以外の人間の足音、身動きするときの気配、呼吸音すら聞こえない。
どっと緊張が解けた。
家にはもう、侵入者はいないんだ。
玄関ホールのライトはついていたし、リビングもそのままだ。
二階へ上がっていく勇気はなかなか出なかった。
ぼく一人だというのはただの思い込みだったら? 何か盗まれた? どういう目的でこの家に侵入したんだろう。
以前、ぼくんチに警察官二人が現れたとき名刺を渡されたことを思い出した。
服部警部補の名刺はサイドボードの引き出しに入っていた。
メールアドレスと電話番号。固定電話からそこにかけようとして、眉を寄せた。
もし、ぼくの勘違いだったら?
誰も侵入なんかしていなかったら?
でも、母さんは戻らない。
警察に任せる……。
本音としては、そうしたい。すべての厄介ごとを本当に頼れる凄腕の大人に丸投げして、二階のベッドで眠っていたい。毛布を頭からかぶり、事件の何もかもが無事に終わるのを待っていたい。灰色の一戸建てに引きこもって、ただ母さんを待つだけの小学生にもどりたい。
めそめそと弱音を吐きそうになって、拳をぐっと強く握った。
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