探偵になるまでの2,3のこと ⑯
ぼくの家族。ぼく自身をしんどい目に合わせた『敵』が憎い。カッターをサッと動かしてやりたい。どんなに憎んでいるのかを思い知らせてやりたい。
だけど、いまそんなことをすれば母さんはどうなる?
ハンドルを切り、右へ左へ車線を変更しながら黒田圭子を名乗っていた永沢光江が笑い出した。
のどをのけぞらせたヒステリックな笑いで、聞いているだけでイラついた。思わずのどにカッターを突っ込んでやりたくなる。外はどしゃぶりで、ひっきりなしに雷鳴が空を切り裂いている。たった一つの頼みの綱が手の中の薄っぺらいスマートフォンだ。
車線に割り込まれた後方で車が急ブレーキを踏み、クラクションが鳴る。前後左右から抗議の騒音がポルシェを包む。助手席のぼく自身、身体がぶれてカッターを持ち直した。
「あたしを刺せるもんならやってごらん、坊や! ガキなんかちっとも怖くないんだ! そんなカッターで何ができるのさっ」
オフィス街から駅裏へ回ると、下町風の雑居ビルや広い駐車場が雨に打たれていた。そのあたりはせいぜい十階建てくらいのビルやマンションが並んでいて、『シャトー・ヴィラ』もそのうちの一つだった。
マンションの駐車場へ入るまでに、ネットチューブのアプリをタップした。パスワードやIDを聞き出すまでもない。自動的にログインされた。
驚いたことに永沢光江は「メメラン・チャンネル」以外にも「セラクミ」のアカウントを持っていた。
ランドセルを車内に置き、スマートフォンを抱えたままぼくは永沢光江の右ひじをつかみ、右手のカッターを相手の脇腹に当てがってエントランスホールを進んだ。防犯カメラにカッターが見えないように注意した。
永沢光江はふてくされて、もうやけっぱちって感じだ。
ぼくのカッターを恐れているというより、自分のスマートフォンが奪われているから逃亡できないでいるんだって、開き直ってふてぶてしい表情を浮かべている。要するにぼくを子どもだと思って甘く見ている。
エレベータに乗り込んだときには、もう余裕しゃくしゃくって感じになっていた。
「これから向かおうとしている八〇五号室で、すぐ形勢逆転だよ。クソガキ」
ネットチューブ・アプリの管理画面から、『作成』アイコンの「+」マークをクリックする。そこから『ライブ配信を開始』をタップした。
不意にスマートフォンを永沢光江に向ける。
「こんばんは~メメラン・チャンネルです!」
すっとんきょうなぼくの声に、永沢光江が背筋をぎくりと硬直させた。
自分のスマートフォンが顔の前に突き付けられていることと、メメラン・チャンネルの名前にこれから何が行われようとしているのか悟ったらしい。
乱暴に手を前に突き出した。てめぇ! このガキ! と威嚇したけど、ぼくはやめなかった。怒りにゆがんだ永沢光江の表情も威嚇の声も、そのまま配信されているはずだ。ライブなら、たぶん。
ぼくは出来るだけ大声でナレーションした。
「今晩の放送は生放送! ライブ配信されていますよね? いきなり語るのって難しいや。でもがんばります! いま映っている女の人、ぼくの母親を誘拐した可能性があってさ、『森部五色村ストーカー殺人事件』についても、いろいろ知っているみたいなんだよね。ぼくの父さんについても。……だから、きっとこれから配信される映像にも興味を持ってくれるよね? じゃあ最後まで見届けてくださいっ!」
エレベータの扉が開く。ホールに飛び出すなり、永沢光江は猛然とうなり声をあげた。腕を振りかざしてぼくの手からスマートフォンを叩き落としにかかる。そのたびにぼくはステップバックしたり横に跳んだりして、かわしながらしゃべり続けた。
「映像ぶれちゃってゴメンね。だけどいま実際に起きていることだから大目に見てくれると嬉しいな」
「勝手な配信しやがってッ。死ね、このクソガキ! 覚えてろよッ」
逆上してジャケットの胸ポケットからサングラスをむしりとり、ぼくに投げつけた。足元で薄い紫色のサングラスが砕け散る。すかさずダッシュして永沢光江が走り去った。ぼくはスマートフォンを掲げたまま後を追う。
「ここで慣れたネットチューバーなら実況中継の言葉をポンポン吐き出すだろうけど、初めてだから黙って追いかけますっ」
黙ってって断りを入れるナレーションは奇妙かも。そんなことをチラッと思ったけど、実際はそれどころじゃなかった。
かかとの高いヒールで走る永沢光江の速度はたいしたことなかったけど、気合が入っている分すばしっこい。
八〇五号室のドアを開くなり、サッと永沢光江が身体を滑り込ませる。ぼくを締め出そうとしても無駄だ。永沢光江に続いて、ぼくも玄関に身体を滑りこませる。
ハイヒールを脱いで前のめりになった永沢光江を追い抜いて、ぼくは土足のまま室内に転がり込む。
奥のリビングまで走り込んできた永沢光江とぼくを見て、男がハッとソファから振り返る。
「一体、どうした」
リビングでは壁にかかった液晶テレビのスイッチが入っていて、ニュース番組を放送していた。
高級そうな黒いレザーのソファやキャビネットがあって、大理石みたいな色のローテーブルの上には洋酒のビンやグラス、料理の皿があった。おしゃれなキャビネットには、ぼくですら高そうだなって見分けがつく古めかしい陶器がたくさん飾ってあった。青地に白色で風景画や花模様が焼きつけられた皿、大人の顔の倍以上大きなガラスの皿、古風なティーセットなんかが。いくつもいくつも飾ってあった。
「久巳! こいつ、三加茂センター長のガキよッ」
永沢光江がぼくを指さして叫ぶ。ひさみ? 女みたいな名前だなと思った瞬間、男の正体にハッとした。
男は光沢のあるガウンの下はパジャマだったけど、前のボタンをはずしているせいで胸の皮膚があらわになっていた。肋骨が浮き上がって、一本一本数えられそうだ。そんな痩せた身体の上にのっぺりとした顔がある。薄すぎる眉毛のせいか、冷淡で薄情な爬虫類をイメージさせる男だ。
ガウンの男は底に足がついているお酒のグラスを、左のてのひらで包むように持っていた。
不意に現れたぼくに、豊田久巳はぼうぜんとしていた。
「驚きました!」
ぼくは中継しながら叫んだ。
「実は、ある程度予想がついていたけど、ほんとにここで対面するなんて、驚きました! 『森部五色村ストーカー殺人事件』の被害者、鷲尾麻美さんに嫌がらせをしていたのがこの人です。ここに、豊田久巳がいます!」
配信するのは初めてだったし、この方法でいいのかどうか、自信たっぷりってわけじゃない。
手もとに掲げたスマートフォンに表示される視聴者数やチャンネル登録者数をチェックすればいいんだろうけど、チラッと見る余裕さえなかった。
「この子、ヤバイよッ!」
「なんだ、このガキは……ッ」
「いま中継されているの……ッ。ほら、あんたサッサとガキからあたしのスマホ取り上げてッ」
永沢光江の金切り声にやっと我に返った豊田久巳が突進してきた。
蒼白になってうなり声をあげて腕を突き出す男の顔がドアップになり、ぼくはそばにあったローテーブルの上に飛び乗った。
洋酒のビンやグラスが足にぶつかる。大理石色のテーブルから白身魚のカルパッチョとか黒コショウを上にふったピザの切れ端とかがあって、油で汚れていた。そのせいでスニーカーの底が滑る。おまけに力任せに豊田久巳がテーブルのはしを持ち上げたもんだから、カルパッチョの皿と一緒にぼくはローテーブルから床に転がり落ちた。
がちゃあんという物音が耳元ではじけ、あわててスマートフォンを顔の前に掲げる。
あおむけに倒れこんだぼくの目の前に、照明スタンドをつかんで頭の上に振り上げている永沢光江の姿が迫って来た。
女の顔の中で目が大きく見開かれ、鼻にしわがより、唇がめくれあがっている。前歯が唾液で白く光って、獣みたいな息が漏れていた。うむぅッうむぅッうむぅッ……と。その合間に「この野郎」とか「クソガキ」とか「殺す」とかわめき散らし続けている。
スマートフォンを取り落としそうになったけど、転がった姿勢のまま後退して、液晶画面を前に突き出した。そうする間にも、スタンドがうなりを上げて振り下ろされる。右に転がって避けたぼくの顔の横へ砕けた電球の破片が飛び散った。ぼくはずっとその様子を撮影し続けた。たぶん、これで大丈夫だろうな? ライブ配信……。
「や、やめなさいッ」
不意に静止の声がかかる。
先が破損したスタンドを振り上げていた女がビクリと動きを止める。ぼくはおしりで後ずさり、すかさず永沢光江から距離をとった。
豊田久巳は咳ばらいをして「や、やめなさい」ともう一度、穏やかに言った。BGMはニュースのアナウンスだ。台風十一号が太平洋側を直撃して、高潮の被害を伝えている。
立ち上がったぼくに、豊田久巳は機嫌を取るような笑みとも、𠮟りつける大人の余裕ともとれる、もったいぶった調子で話しかけた。
「落ち着いて話し合おうじゃないか。き、君は三加茂センター長の息子さんだってね? 人をからかっちゃいけないよ……ネットチューバーにしてもたちの悪い。その年ごろだから好奇心が旺盛なのかもしれないが」
もしもぼくがネットチューブで本当に実況しているとしたら、永沢光江がスタンドで撃ちかかる暴力映像が人目に触れる。だから、この場は穏やかに表面を取り繕おうと判断したに違いない。
ぼくは顔の前にスマートフォンを掲げたまま黙っていた。
「ライブ配信だって? そんなこと、子どもにできるわけがない。そのスマホは光江のモノだろ。人のモノを盗って、恥ずかしくないのか?」
「こいつに何言っても無駄よッ」
髪を振り乱した永沢光江がヒステリックにわめく。
「よさないか! 光江。いまおれたちは騒ぎを起こすわけにはいかなんだぞ。なにより、子どもにネットチューバーなんかできるわけがない。よく考えろ!」
豊田久巳の一喝に、ほんの一呼吸の間シンと静まり返った。
ちょっと口元に拳をあててから、永沢光江が手を打って笑い出した。
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