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探偵になるまでの2,3のこと ㉑
ネットでのあおりがなくなり、『森部五色村ストーカー殺人事件』の三加茂重彦犯人説は消えている。最初からそんなものは無かったかのように。
足首のひどい捻挫はまだ痛むそうだけど、「もう湿布だけで充分よ」と車いすから母さんは降りた。
背中の打撲のあざは消え始めていたし、左腕の尺骨に入ったひびも十日後にレントゲン撮影の予約を入れ、さっさと退院手続きをすませてしまった。お医者さんは「もう少し入院して精密検査が必要ですよ」と言ったけど、母さんは「検査のために日を改めて通院します」と押し切った。
担任の遠藤先生がお見舞いがてら退院の手伝いに来てくれて、ぼくたちを病院から「灰色の一戸建て」まで送ってくれた。
車の中で遠藤先生はハンドルを握りながらいろいろとしゃべった。クラスのみんなが心配していることとか、イジメについては本当に気づくのが遅くてすまなかったとか、ネット配信についてはとにかく驚いたとか、母さんへのねぎらいの言葉とか、父さんは「気の毒だったね」とか。
ぼくらがリビングに落ち着くのを見計らい、遠藤先生は「後日改めて訪問いたします」と挨拶して去っていった。
ニュースでは報じている。父さんの遺体がいまだに見つからない、と。
ネットでもワイドショーでも、豊田久巳と永沢光江たちの罪が一つ一つ解説された。
そういう報道で、シャトー・ヴィラ八〇五号室でライブ配信した映像は共有されていたけど、ぼくについてはまったく触れられなかった。
ライブ配信したのは謎のネットチューバー「X」だということで、
……ネットチューバーXを特定しようとすれば、脅迫される。しつこいと裏社会の人間から危険な目にあわされる……
という都市伝説まで流れはじめた。
警察がそういうデマを流すわけはないから、もしかしたら誰かがぼくを特定しようとしたネットユーザーたちをホントに恐喝したり、危険な目に合わせたりしているのかもしれない。あくまでも、カモシレナイという仮定形だ。
ぼくはいろいろと考える。
正義ってなんだろう。
立場や見方を変えれば、いくらでも自分勝手に正義を振りかざせるんじゃないだろうか。
熱くなった頭で正義感や義務感をあおられ、自分でよく考えもせず、ニセ情報を拡散するネット社会では。
弁護士へ母さんはいつの間に連絡を入れたんだろう。
ネット被害者救済弁護団や、SNS被害専門相談窓口にメールを入れ、被害状況を訴えたらしい。
母さんは起訴するつもりだ。父さんを誹謗中傷したサイトへの書き込みをした人を割り出し、動画配信で名誉棄損をしたネットチューバーを訴えて、きちんと整理したいという。
インターフォンが鳴った。
ぼくが顔を出すと、福部さんが二人の友だちを連れて菓子折りを手に立っていた。
「これは、見舞いの品だ」
ぐいっと菓子折りをぼくに押し付ける。あとはほとんど一方的にしゃべった。
「わしの隣にずる賢い犯罪者が住んでいたなんて、ショックだったよ。誹謗中傷の怪文書入り回覧板は永沢光江がやったことだとしても、こちらも隣人の犯罪に気づかなかったのはうかつだった」
そこで福部さんが言葉を切る。ぼくが振り返ると、まだ傷が癒えていない母さんが足を引いて近づいて来た。母さんに福部さんたちが会釈した。
「三加茂さんも大変でしたね」
と声をかけたのは三宅さんチのおばあさんだ。歯痛がするかのようにほほを押さえたまま続けた。
「ネットっていうの? 便利な世の中になった反面、怖い時代になったもんだねえ」
再び福部さんがうなずいた。
「小学生が公園で騒いでいたのだって、人目があればああいうことにはならなかったはずですからね」
ああいうこと、というのはぼくが墨汁を頭からかけられたことと、それが録画されたことを指しているらしい。福部さんの隣にいる背の曲がった白髪のおじいさんが言葉をつなぐ。
「とにかく、登下校時に庭木の水やりとかして、こっちもそれとなく子どもたちを見守りますよ。これから気楽に挨拶するから。とにかく、よろしくね」
「わざわざお声をかけてくださって、ありがとうございます」
お見舞いの菓子折りを受け取り、母さんは深々と頭を下げた。
そんなことがあった翌日。
本当に遠藤先生が家庭訪問した。
五組担任の畑中先生と校長先生も一緒だった。
「大勢で押しかけてしまって、申し訳ありません」
「イジメをした子の保護者もご一緒かと思っていましたが」
痛む足を引いて先生たちをリビングに通すと、母さんは三人の教師たちに首をかしげた。そのときぼくはキッチンでお茶の用意をしていた。リビングの会話に耳が大きくなる。
「篠田正次と下川秀和、佐野健司そして宮本定克の四人の生徒の保護者ですが」
細い声は畑中先生だ。影の薄い国語の先生で、うわさではいつも篠田正次に授業妨害されているらしい。
「それぞれ仕事もありますし、何よりお怪我なさっている三加茂さんのところへ、みんなで詰めかけるのはむしろご迷惑ではないか、と配慮がありまして……五組担任のわたしが代理としてうかがわせていただきました」
ぼくは緑茶を入れて、先生たちと母さんの前に置いた。
「いろいろと大変だったね、君も」
校長先生がぼくにねぎらいの声をかける。ぼくは「はあ」と曖昧にうなずく。
公園で墨汁をかけられたイジメから十日くらいしかたっていないのに、ものすごく昔のことのような気がしていた。
お茶を出し終わってもそのまま二階へ引っ込まず、なんとなくぼくはリビングのすみっこでお盆を持って立っていた。
母さんと先生たちがどういうやり取りをするのか興味があった。
一般的に、イジメ側の保護者は「イジメなんか無い、すべて勘違いだった」「穏便にすませましょう」「うちの子ばかりが悪者になるのは不公平」「男の子の乱暴な悪ふざけが度を越してしまっただけ」とか主張するらしい。
だけど、畑中先生は「わたしの担任のクラスの子が、とんでもない迷惑をかけて、恥じ入っています」としおれた。特にくどくどと「ネットの情報で、誰もが動揺していたのです」と強調した。
「それは先生ではなく、加害者の親から直接聞きたかった言葉です」
憤慨の声色で母さんが責める。
「問題を抱えていない家庭はありませんし、ウチも主人の名誉棄損などで裁判を考えております。これ以上、転居や転校で子どもに負担をかけたくないのです。できれば卒業までは穏やかに無事に、と願っているんです。こちらは事を荒立てようとは考えていません。むしろ逆です。加害者側の親御さんたちも同じお考えだと思っていればこそ、ご連絡いただきたかったんですよ。それなのに、きちんとウチの子と向き合おうとしないのは失礼じゃないですか。たった一言の謝罪と、二度と同じ過ちを繰り返さないという言葉を自分たちの口から告げてほしかった。それだけなんです。なのに、代理に先生方を立てるなんて、誠意がなさすぎます」
「もちろんです。言い分はもっともです」
すかさず校長先生が大きな封筒を差し出した。
「わたしどもの管理不行き届きが申し訳ない。この封筒にはイジメ加害者の子どもたちとその保護者たちからの謝罪文が入っています」
「これで納得しろ、とおっしゃるんですか?」
「申し訳ありません」
頭を下げたのは遠藤先生だった。隣でうなだれている畑中先生も、あわてて「すみません」と更に頭を下げる。
「実を申しますと、『森部五色村ストーカー殺人事件』の犯人・永沢光江の親族が、イジメ加害者の生徒であることを一部のメディアが嗅ぎつけて、学校に問い合わせがありまして……」
遠藤先生が言葉を濁す。あとを再び校長先生が汗を拭きながらおぎなった。
「苗字が違いますし、情報の漏洩さえなければ二度と子どもたちが動揺することはありません。もちろん、学校としても、三加茂くんが受けたような被害は繰り返したくないと切に願っております。職員会議でも校門での朝の声かけ、こまめなアンケート調査を実施して、良い方向へ小学校を変えていく意志を確認しました。……そんな矢先ですから、一部メディアで生徒のプライバシーが暴露される危険は、どんな小さな芽であれ摘んでおかなければならないと判断いたしました。そのため、教師のみで家庭訪問をさせていただいたわけです」
「つまり、ウチに出入りする人間を観察して、イジメをした子を割り出そうとしているメディア関係者がいる、ということですか?」
食い下がる母さんに、今度は畑中先生がおずおずとうなずいた。
「配信された動画の件で、小学校としても、生徒たちにも、大きな心の傷になりましたので……。用心のため、保護者同士での話し合いは、しばらくご遠慮くださいと……わたしの一存でお願いいたしました」
「先生の一存? そんな勝手な……!」
「わかりました」
あきれて言葉を無くした母さんに代わって、ぼくが割り込んだ。母さんの前から大きな封筒を取る。
「謝罪を受け入れます。明日の月曜日から登校します」
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