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探偵になるまでの2,3のこと ⑪

「わたしの家、良真くんチとは反対方角だよね。それに小学校とは一キロと離れてないの。でも、中学は遠くなっちゃうから自転車通学になると思う」

「そうなんだ。自転車用のレインコートがいるね、こういう日には」

 他愛ない話しをするうち、緑川さんの家の前に着いていた。そのころには心が和んでいた。

 緑川さんの家は明るいオレンジ色の外壁に紺色の屋根を乗せていた。庭はよく手入れされた芝生が広がっている。

「入って」

せかせかと玄関ドアを開錠し、緑川さんはぼくを押し込んだ。ふっくらとしたスリッパにちょっと圧倒された気分になった。

「おじゃまします」

「このタオル使ってね」

 差し出されたタオルで顔をふき、肩や首筋、濡れたランドセルをぬぐった。

 それからぎこちなく見まわしながらリビングまで進んだ。すりガラスがはまったドアを開くと、柔らかな花模様がある壁紙とソファが目に飛び込んで来た。

「ママは仕事でいないから、お茶はペットボトルだけど」

「いいよ、気を使わないで。すぐ帰るから。……話ってなに?」

 キッチンカウンターの向こうにある冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出した緑川さんが、ガラスのコップに注いでいる。

 ぼくらはソファに並んで座った。

「……落ち着いて聞いてほしいの」

 麦茶を差し出され、ぼくは両手で受け取って一口飲んだ。

「あのね、良真くん」

 みかもくん、ではなく下の名前で呼ばれるようになったのはいつからだろう。ぼくは考えながら緑川さんの言葉を待った。ぼくは麦茶のコップをテーブルに置いた。

あのね……と繰り返した。

歯切れの悪い緑川さんの態度に、イヤな予感がした。

 下の名前で呼んでくれる唯一の友だち。ぼくを救おうとがんばってくれた緑川夏子さん。冷たく険悪なクラスの空気を変えてくれた緑川さんの言葉を、ぼくは待った。

 思い切ったように緑川さんが、ぼくの顔へ真っすぐ視線をぶつける。

「あの……わたし、家でスマホ使っていたんだけど」

「スマホって自分の?」

「うん、親が誕生日に買ってくれたの。アプリはあんまり入れてないけど……。メールが入っていて、それに映像が添付されていて」

そこまで口にして、顔を伏せてしまった。膝の上のジャケットをきゅっと握りしめている。呼吸を整え、それからもう一度、ぼくに目を向けた。緑川さんの顔から血の気が引いている。

「……良真くん、五組の子たち、まだイジメやっていたなんて……」

かさかさの震え声だった。

「メールの添付映像で、それを知って……」

ぼくの顔からも血の気が失せていたと思う。映像?

「それ、見せて」

 強い口ぶりだったことに、ぼくは自分でも驚いた。はじかれたように緑川さんが立ち上がる。テレビ台の上で充電器に接続されていたスマートフォンを外して戻って来た。それを差し出したけど、ぼくが手を伸ばしたらちょっと引いた。

「……あ、でも、観てないなら、いいの……。観ない方が……」

「いいよ、全部知りたいんだ」

 おずおずと緑川さんがメールアプリをタップした。送信者のメールアドレスが『篠田正次』とあったことに一瞬ぼくはぎょっとした。

添付ファイルを開く。

 ネットチューブの映像データだった。

『森部五色村ストーカー殺人犯Мの息子、イジメ実況』というコンテンツだ。

ネットチューブ投稿者名は「メメラン・チャンネル」。いままで聞いたこともないネットチューバーだ。

 背筋が凍り付いた。それでもぼくの指先はそこをクリックしていた。隣で緑川さんは顔を伏せている。

 映像が始まった。

 昨日の出来事だった。場所は近くの公園。どの子も顔はモザイクがかかっていたけど、ランドセルを押さえつけられ、両手を左右から取られているのはぼくだ。わめき声、死ね死ね死ね! の連呼。父さんは違う! そう叫ぶぼくの声が鼓膜を震わせる。無様に砂地へつぶれたぼく。墨汁を浴びせられた屈辱の映像。

 再生時間は五分に満たない。でも、登録者数はすでに一万人を超えている。「イイネ」のクリック数はたぶん、その半数はあるだろう。このイジメ映像を見た人たちはエンターテイメントとして楽しみ、ためらいもなく「イイネ」を押したというわけだ。

「やめて!」

 ついに緑川さんがぼくからスマートフォンを取り上げた。添付ファイルを閉じ、スマートフォンの電源すら落としてしまった。

「ごめん、こんな映像見せるんじゃなかった。わたし、びっくりして……。親に相談したんだけど、それは学校の先生に届けるべきであんたは関わっちゃだめって言うだけで……。遠藤先生に相談しようと思っていたけど、今日は午後休校になっちゃうし……。どうしていいのか」

「このメール、篠田から送られてきたんだよね」

「幼なじみなの。母親同士が仲良くて……。わたしにスマホをプレゼントしたってママが正次くんママに電話でしゃべってから、正次くんがしつこくメールアドレス聞いてくるもんだから、つい教えちゃって……」

ネットチューバーが隠し撮りした映像だ。「ポピナンTV」ではなく「メメラン・チャンネル」

粗暴な篠田正次がネットチューバーだとは思えなかった。だけど、こんな映像がネットに存在するなんて。

ダッシュして自分の家に戻り、アイパッドでいまの映像を検索したかった。いまもこの映像が垂れ流しになっているのかどうか、確かめたい。

全身の血液が屈辱の色に染まっている。

 いったい、誰が?

この映像をよりによって緑川さんが目にするなんて。恥と悲しみ、怒りといった感情でキリキリと胃が痛んだ。ストレスからの吐き気。

ぼくを攻撃し、バカにして傷つけ、ネットチューブの広告料金を得ようとしている人間がいる。あの映像を観て、面白がっているヤツらが存在している。

このコンテンツは削除されているかもしれない。

 ネットチューブのコミニティガイドラインに沿わない、ハラスメントや暴力があるコンテンツだから。

 だけど、デジタルのコンテンツは削除されたとしても、サーバのどこかには残るらしい。視聴されなくなったとしても、この映像はどこかに残る。こっそりダウンロードしている人もいるかもしれない。拡散されれば、削除なんて追いつけない。屈辱からは一生、逃れられない。

いまどんな人の目に触れているのだろう? コンビニで親切を示してくれたメガネのおじさん、遠藤先生、奥田巡査、服部警部補、もしかしたら父さんや母さんも?

顔はモザイクがかかっていたけれど、気にしている人にはすぐ気づくだろう。

あれがぼくだって。

目の前の緑川さんのように。

 ぼくだけが、どうしてこんな目にあわされるんだ?

もうだめだ。生きていけない。

 それでもぼくは、ひりひり痛む感情の一切を切り落とそうとした。

考えろ! 考えるんだ! と耳元で叫ぶぼく自身がいた。一切の体温を失いながら「考えることをやめるんじゃない!」と命令している。

 あの公園に、あのとき誰かいたか?

 スマートフォンかデジタルカメラをかかげている人が?

 いや、福部さんが来るまで、あそこに人はいなかったはずだ。

 篠田正次本人はありえない。取り巻きの三人、下川秀和、佐野健司、宮本定克……こいつらも不可能だ。

 第一、暴力でのイジメをネットで拡散すれば、事態はむしろあいつらに不利になるはず。ネット上の映像が、イジメの実行者が篠田たちだという動かぬ証拠となるのだから。

 だけどイジメ現行犯の証拠だからってなんだっていうんだ。

 だめだ、ネットチューブの映像なんか忘れろ。そのときの状況について考えるんだ!

 

このときのぼくは、ある意味で分裂していた。

絶望に打ちのめされて呆然と胸の中で「だめだ、もう死のう」とすすり泣くぼく。

リビングのソファで緑川さんに、答えを求めようとしているぼくがいた。

 

「ネットチューブのあの映像、近くの公園なんだ」

 緑川さんは肩を落としてうなだれた。ぼくに対して申し訳なさそうに。

「ごめんね」

「どうして緑川さんが謝るの?」

「ホームルームで、イジメのことを議題にしたのに、イジメ……なくならなくて」

「そんなこと、緑川さんが謝ることないよ」

「だけど、だけどさ……。ちっともいい方向に進まない。……わたし、くやしい……」

 気づいたら緑川さんとぼくは手を重ねていた。不意に手が触れたことで緑川さんはハッと顔をあげてぼくを見た。だけどぼくらは手を離したりしなかった。

「正直のところ、ずっと疑問だったんだ」

「え、なに?」

「あの『森部五色村ストーカー殺人事件』が報道された時点で、篠田正次は一組の教室入り口で騒ぎだしたよね」

「うん、覚えてるよ」

「あいつ、たしかこう言ったよね。……ワシオアサミって女を殺したのはお前の父親だ……」

 ぼくたちはしばらく黙り込み、息を詰めていた。

「これから、一緒に行ってみない? 正次くんチ」

「この近くなら、教えてくれればぼく一人で行くよ」

「ううん。わたしがいた方がいいと思う」

 コップに残っていた麦茶を飲んで、ぼくたちは立ち上がった。

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