扶桑国マレビト伝 ㉖
この声は、ささやきは、この人との会話は、夢だろうか?
それとも気づかぬうちに常世のどこかにある『無の世界』に一瞬紛れ込み、涼加先生と顔を合わせたのだろうか?
あたしは大聖堂の壁の前に立って、金色のチョークをつかんでいた。
線を引いた。描いていく。
その構図が胸に焼き付いている。
どう描けばいいのかすべて分かっていた。呼吸するみたいに自然に理解できた。
あたしの胸の奥で、涼加先生は少しうなずいたようだった。
あたしはチョークを動かした。壁面を這うチョークは確かで、自分の腕ではなく別の、かなり熟練を積んだ描き手があたしに力を貸しているのを感じる。
大聖堂の壁面に、あたしはあたしが持てるかぎりの想いをぶつけた。
まるで見えないピアノを演奏するかのように。思いつくまま腕が動くままにあたしは心を解放させた。
マレビトは神でも悪魔でもない。
世界の均衡を保とうとする森羅万象の「力」そのものだ。
古くからあって新しく、遠くへ引いてはまた打ち寄せる。滅んではよみがえり、寛大でありながら厳しく、ものすごく巨大でありながら目に見えないほど小さい存在。
常世は地中にあり、天空にあり、現世を取り囲んでいる。
扶桑国はたまたま常世の存在に敏感だった。その境界線が曖昧だった。描かれた『扉』でマレビトが来訪できるほど。
ただそれだけの縁だった。
扶桑人にマモリガミを与えたのは、マレビトにとって常世との均衡を保つという契約の証にすぎなかった。
でも、時代は変わった。
扶桑国は近代化を選び、マモリガミを疎んじている。捨てたいと願い、マレビトすら支配しようと野心を燃やした。
そんな傲慢が許されるわけがない。
九十九円蔵が描いている処刑のありさまが力を失い、あたしが発生させる色彩に屈していく。
心のままチョークの先端から思い描く色彩があふれ出す。見知らぬ宇宙へ発信するかのごとく線を引き、光りと影、白と緑、茶色とグレー、赤、黄、空色といったあらゆる色をぼかし、自然のバランスを取りながらチョークを動かす。腕を回す。右へステップして風を描き、左へ走って草花と木々を描いた。
あたしの画才も技術も、九十九円蔵の足元にもおよばないだろう。それでもいま、涼加先生があたしに力を貸してくれている。
冷たい大聖堂の壁面の中でうめき声をあげていたマレビトは縄を解かれ、あたしが描く草原の風となって天へと舞い上がる。マレビトの影が天井に届いたと思った次の瞬間には、静かな夜に紛れていた。その夜の中では傷つけられた魂が優しく慰められている。
気が付いたら、あたしは壁画の前に立っていた。
炎にあぶられた処刑図はそこにはない。
一面の明るい天体が満ちている。世界を支える巨樹の周囲では花々が風に揺れていた。
壁画の出来をながめていたあたしは、物音に気付いて振り返った。
「……うう、う」
胸を押さえて身をよじっている九十九円蔵の様子はただ事じゃなかった。
ステッキを握り直そうとするけど、右腕はすでに諸見沢くんが背中にねじ上げている。それでもぎこちなく逃げようと左手をさ迷わせて、ひざで床面をこすっていた。かたわらでは九十九円蔵のマモリガミ、灰色ヘビが横たわっている。
「ふん、ぼくに殴り倒されるなんて、口ほどでもないね。灰色ヘビの毒だって、マレビトが消してくれたみたいだ」
クロはライオンの姿のままで、他のマモリガミたちと一緒に九十九円蔵をぐるりと取り囲んでいた。苦痛に顔をゆがめ、床に半身を押し付けられている九十九円蔵をマモリガミたちが威嚇している。
諸見沢くんが九十九円蔵の右腕を背中にねじり上げたまま、力を加えた。グキッと音が響く。関節が外されたショックと痛みで、九十九円蔵が悲鳴を上げる。さすがにあたしも息を飲んだ。
「……お、おのれ……。わたしはこの国の行く末のために働いたのだ。それを、それを……ッ」
痛みにあえぎながら、九十九円蔵が呪詛をつぶやき続ける。
「もうマレビトは常世へ戻ったわ。『扉』は封印した! あんたの呪力をこめた道具だってバラバラにしてやるんだからっ」
いらついたあたしはステッキをひざに置いてへし折った。バキンと派手な音が響き渡り、床を汚している土くれに芽吹いた若葉の茂みを震わせた。
九十九円蔵が悲鳴を上げ、苦し気に歯ぎしりした。
「統制派を打ち負かしたと思うなよ! 近代化は止められぬ。マレビトの力に代わるものを欲して、扶桑国は前進するのだ! 対外戦争に勝たねば、欧州各国に植民地化されるのだぞッ。異国の軍隊に蹂躙され、民が奴隷となるよりは、統制派に……このわたしに従った方がよいのだッ」
狂気すら感じさせる九十九円蔵を、あたしたちは持て余した。
先刻まで影鬼だった土くれから芽生えたつる性植物を引きちぎると、諸見沢くんはそれで九十九円蔵の両手首に巻きつけた。きつく縛り上げる。
あたしは自分の手をながめ、周囲を見回した。
影鬼たちはすべてが土になり菌類や苔、新芽でおおわれている。マモリガミはちゃんとそこに存在して、それぞれの動物の姿をしていた。
「よく聞いて、九十九さん」脇腹からの出血でぐったりとしている九十九円蔵にあたしは言った。「涼加先生が化身した金色のチョークはすべて使い切った。常世への『扉』を封じるために。だから、もう二度とマレビトの力は現世に届かないわ。いまは存在しているマモリガミを最後に、あたしたちの子や孫の世代がマモリガミを持つことはない。影鬼も産まれてはこない」
「な、何を根拠に……」
「確かなことよ。マレビトが去るとき、あたしの心にそう告げたから」
九十九円蔵が視線をさまよわせる。ぐったりと気絶してしまった。
「こいつを警察に届けて、病院に送ってやらなきゃ」
拳銃をズボンの後ろに差しながら諸見沢くんがあたしをうながした。
それから、ぐるりと壁画をながめた。
「さすがだね。すごい絵だ。ずっとながめていたいけど、そろそろ夜が明けるよ」
「窓も玄関も大きく開こう。マモリガミたちが、それぞれの所有者のもとへ帰れるように」
諸見沢くんがうなずいて、玄関の扉を開く。
それを待っていたかのようにマモリガミたちが街路へと駆けだした。肉球やひづめの跡をホールから路地へと点々とつけ、鳴き声を上げながら尻尾を振って次々に大聖堂を出ていく。背中にザリガニを乗せているセイウチもいれば、リスを乗せている牛もいた。
壁画の上にある窓を開くための紐を引いてから、あたしと諸見沢くんも朝日に照らされた路地に出た。
辻馬車の車輪の音が響く。
御者が驚いたように手綱を握り直し、帽子のつばをちょっと上げて挨拶して通り過ぎて行った。
花屋の店先には切り花を活けた大きな桶があって、そばには腰をかがめた姿勢の女の人の石像があった。またたくまに石像が色をまとい、腰に手を当てて体を伸ばし始める。
ついいましがたまでざらついた石であった人々が、大聖堂から次々と現れるマモリガミたちの群れに驚いて、目を見開いた。
「なんだい? 影鬼に襲われた夢を見ていたのかね? いつのまにか朝になっているよ! いったい何があったんだ」
「わあ、あちこちで事故があったらしいぞ。いや、大地震でもあったのか?」
人のざわめきと驚きの声があがる。横転した市電に気づいた人々がマモリガミたちと共に電車の残骸へと駆け寄っていく。動物たちが前足や鼻先で怪我を負った人たちの体を持ち上げて救い出す喧騒が起きていた。
振り返ると、カナリアをはじめとした鳥の姿のマモリガミたちが大聖堂の天窓から羽の音をさせて次々と飛び立っていくところだった。
朝の空は満たされていた。陽ざしと多くのざわめきで。
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