探偵になるまでの2,3のこと ⑭
四 イノチガケ
人にまことがないほどの恥辱がありませうか
坂口安吾『イノチガケ』
公園を出たとき、「センター長の三加茂さんの息子さんね」と声をかけられた。
傘から滴り落ちる雨水ごしに、ぼくはその人を見た。
もはや豪雨になっていた。その女の人は黒い大き目の傘を差し、真っ赤なワンピースの上にひざ下まで裾がある黒いレザーコートをまとっていた。薄紫色のサングラスをしているから、人相はよく分からない。
ただそこに立っているのではなかった。女の人のすぐ後ろに、鮮やかな深紅色の自動車がある。雨雲に覆われた薄暗い景色を切り裂くような色だ。車高が低い。
きっと風の抵抗が少ないだろうな。ぼくはこの辺では見かけないポルシェに息を飲んだ。同時に、チャンスマートでメガネのおじさんが言い添えた内容を思い出していた。
……いきなり真っ赤なポルシェがぶっ飛ばして走ってったこともあるんだよ。交通事故にあわないように……
そんなカッコイイ車のそばに立つ女の人がぼくに念を押した。
「物流センター長の、三加茂さんの息子さんでしょ? ええと、良真くんと言ったかしら」
福部さんの隣に建つ「山田」の表札がある古い家の敷地になんとなく目をやった。ガレージにいつも収まっているカバーで覆われた車がなくなっている。
ぼくはうなずいた。
「あたしは黒田圭子」
「……え」
黒田……。母さんはこの人に電話で呼び出された。
食い入るような視線を黒田圭子に投げていた。黒田圭子もまた、サングラスごしに無遠慮な観察のまなざしをぼくにぶつけている。
「母とは会えましたか?」
「いいえ。警察からも確認があったけど、あたしの名前を使って呼び出されたそうね。三加茂センター長の奥さま」
「自宅に警察官がいます。一緒に来てください」
たぶんぼくは、そのとき場の空気がゆがむほど緊張感を発散されていかもしれない。
「センター長からあなたを保護してほしいと頼まれて来たの」
「父さんが、ですか?」
のどの奥がぎゅっとつまった。
「いま、どこにいるんです」
自然と身体が動いた。
距離が縮まり、ぼくと黒田圭子の間隔はせいぜい五十センチほどだ。黒田圭子の身体からほのかに立ちのぼる甘ったるい香水の匂いが鼻をついた。
「あたしも驚いているの」
黒田圭子はややぶっきらぼうに髪をかきあげた。傘と肘にひっかけたハンドバックが揺れる。
雨のしずくがバックにかかり、それを左手で振り払う。
そのとき、黒田圭子の左手の甲が見て取れた。中指と薬指と小指の付け根に三つならんだ黒子が目に入る。ぼくはそっと息を飲んだ。
「ぼくを保護するってどういう意味です」
用心深く目を光らせた。
「大企業の紅菱には、いくつか派閥があるのよ」
はぐらかしはぼくより上手だ。
「詳しいことは三加茂センター長のところへあなたを連れて行くまでに話してあげるから、とにかく車に乗って」
ポルシェのドアを開いた。ぼくはそれを無視して歩き出そうとした。傘を捨ててダッシュした瞬間、黒田圭子が肘をつかんだ。
「さっさと乗って」
蹴飛ばそうとしたけど、マンホールにたまった雨水で滑っただけだった。力任せに黒田圭子がぼくをポルシェに押し込んだ。それも運転席だ。肩を押され、そのまま助手席に移動させられた。そうしながら、黒田圭子は運転席に身を滑り込ませている。
ロックし、バックを運転席と助手席の間にあるドリンクホルダーの上に放り込み、エンジンスイッチを入れる。
黒田圭子が顔からサングラスをむしり取るのと、急発進するのが同時だった。
アッと思ったけど、間に合わなかった。
やむなくぼくはランドセルを肩から外し、胸にかかえた。
「猛スピードを出すから、シートベルトを装着して」
「いやだ。すぐ降ろしてください」
「信用できない? それなら勝手にして」
黒田圭子が口元に薄い笑みを浮かべる。ポルシェの助手席で、ぼくはそのとき外国の車なのに右ハンドルだということに気づいた。
車内に黒田圭子の甘い香水の匂いが充満して、ちょっと息が詰まる。
容赦もためらいもなく、黒田圭子はアクセルを踏み込んだ。風を引き裂いて深紅のポルシェが疾走する。
車内の時計は午後四時半をデジタル表示させている。
「どこへ連れて行くつもりなんです。まさか、本当に父さんのところですか?」
こんな状況でも、シートの背もたれは気持ちよかった。ポルシェの走行がなめらかで、母さんが運転する軽自動車とは全然違う。この甘い香水の匂いさえなければいいのにな。せめて石鹸かレモンの匂いなら耐えられるのに。もともとぼくは香水とか消臭剤の匂いがあまり好きじゃない。
でも運転する黒田圭子は風にハンドルを取られまいと必死みたいだ。
「センター長は出張から戻らないつもりだったのよ」
「父さんが?」
「ええ、鷲尾麻美さん……。彼女を連れて海外へ移住するつもりだったはずよ。そのために会計課の金庫の現金に手をつけて」
「うそだ」
「本当のこと。あたしはセンター長の部下だったから、全部知っているの。上司のそんな不名誉を警察に明かしたくなくて、ずっと黙っていたのよ。本当に悩んだわ」
「さっき、ぼくを保護するって言いましたよね。あれ、どういう意味ですか?」
「父親として、三加茂センター長はあなたを心配していた。何かあったら連れて来るように、とことづかっていたの」
交差点を折れて、県道を北上する。信号機は赤信号が明滅していた。ポルシェがタイヤをきしらせる。だけど停車しようとはしない。ぼくは逃げることもできない。
コンビニやファミリーレストラン、ガソリンスタンドが立ち並んではいるものの、遠くに休耕田が目につく。
黒田圭子が熱っぽくつぶやいた。
「そう。……こみいった話しはざっくり省くわ。とにかくセンター長が持ち逃げしたお金はとても大きいの。その一部を謝礼として受け取る代わりに、あなたを連れて来てほしいと」
その横顔を見つめるので精いっぱいだったけど、なんとか質問した。
「会社のお金の横領事件と、鷲尾麻美さん殺人事件がどう結びつくんです」
「その前に、派閥について少し説明が必要ね」
前方の車が左折し、黒田圭子は再びポルシェのアクセルを踏む。
「いえ、派閥のことなんか知りたくありません」
ランドセルを抱えたまま、ぼくは外を見た。
風雨にさらされた暗い道。遠くに一戸建てがまばらに建っているものの、道路の左右は更地と疎林が広がっている。対向車線にトラックが一台。後続には二台の小型車があるだけだった。
雨がたたきつける坂のアップダウンがあるだけの田舎道。この道がやがて海岸線をふちどる都会のネオンと合流するなんて、信じられない思いがする。
闇が広がる空では黒い雲が大きくうねっていた。大粒の雨がばらばらと降りかかる。ワイパーが左右に動く。ひっきりなしに水滴がフロントウィンドウを打ち付けて、しずくが流れ落ちた。
ぶちまけるような雨の音のせいで、ぼくは声を大きくしなければならなかった。
「ところで、父さんは母さんを気にしていましたか?」
「残念ね」黒田圭子はちょっと肩をすくめる。「鷲尾麻美という美人のせいで、あなたの母親のことなんか念頭になかった」
後ろで稲妻が走る。車内が一気に白光に包まれた。遅れてドォンという落雷の音が響く。
窓からのぞむ景色はすでに里山を抜けていた。ひなびた田舎町から電車の線路沿いの広い通りへと風景は変わり、豪雨の中で青羽市に入った。
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