春休みも半ばを過ぎて

 大学生の春休みに関する事実を聞いた私は驚かずにはいられなかった。ちょうど一年前の今頃である。

 岡山で底辺の高校生生活を送っていた私にとって、春休みとは、特に何も魅力のない短い期間という認識だった。夏休みは長く、冬休みは長くはないものの大晦日と正月がある。秋休みは存在しない。冬にやってくる寒波に備えるためにも、秋休みは早急に設けてもらいたい。

 春休みが明けると学年が変わり(変わらない者もいるらしい)、新鮮な温かい風が左右へと泳ぐ。私は花粉症なのだが、それを忘れさせるだけの青々とした空と、眩しく広々とした空間が、一歩外を出ると広がっている。これが春というもので、この上なく良いのだが、春休みはこれを最大限に浴びるための焦らし期間というだけである。

 ここで単刀直入に書くと、大学生の春休みは二ヶ月ある。ここまで育った休日は稀であるため、その規模の大きさに圧倒されたまま進級または留年してしまう学生も多いと聞く。一ヶ月あれば習慣を変えることができる。私が小学六年生だった頃の担任が言っていた。二ヶ月あれば変えた習慣を元に戻すことができる。

 しかしいざ経験してみると二ヶ月なんざあっという間にすぐに湧くティファールである。夏休みを楽しむ前に宿題の計画をしろと父が言っていたのを思い出す。私は毎回その忠告を無視し、並行世界の日記帳を提出する羽目になっていた。大学生となった今では流石にその文化は消え去り、課題も特には課されないものの、毎日狭い家でダラダラダラダラダラダラダラダラ過ごしていてはやり場のない後悔を抱え続けることになる。社会人の世界には一ヶ月単位の休みなど存在しない。畜生。今のうちに一生分遊んでやろうという気立てでこの超長期休暇と対峙していかなければならない。遊びとは戦いの近傍にあるゆえに、生半可な気持ちでは思い通りの休日を過ごすことは叶わない。

 と、こんなことを意気込んで休みに入るのだが、数日経つとこの気立てがするりと抜けてしまっている。春休みに制作するはずだった映画はいろいろ抱え込み過ぎて破綻してしまった。なぜ監督と脚本と主演と編集を同時にできると思ったのだろう。一ヶ月前の自分に詰問したい。ミラーレスカメラを買うためのバイトもできないまま貯金が外食に変わっていく。なんとなくで食べるラーメンほど罪の意識を感じさせるものはない。完食時の財布の中の無の空間がにやにやしながらこちらを見ている気がして耐えられないのだ。

 今日は三月十日。春休みがいつ終わるのか知らないが、あと一ヶ月弱だろう。長いようで決して長くはないので、やり残しの無いように過ごしていきたい。買っただけで読んでいない本や映画館で観たい映画の消化、Illustratorの練習、ペンタブでお絵描き、コンテスト出品用のレゴ制作等、やれやれ挙げるとキリがない。これでは休みがいくらあっても足りないじゃないか。

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