2023がはじまるよ Part2

 前回の記事にも目を通してもらえると。死の淵から生還した男の話。

 同窓会。変わってる人。変わってない人。行方不明の人。悪く言えばただの過去縋りかもしれないが、こんな日が人生に一度くらいあってもいいじゃない。当時気付かなかったことが年を重ねて分かるようになったり、顔だけ知ってるけど話したことがなかった人と仲良くなったりする。同級生のほとんどは大学生で、冗談抜きの「いまどうしてる?」状態なので基本的に話は尽きない。参加できて本当に良かった。カメラも欲しかったけど。

 日付が変わり、終電もないので、その日酷使した足で数キロの夜道を一人でとぼとぼ歩いて帰った。実家に帰ってからポケモンしかやっておらず(マジカル交換でもらったヒトカゲの卵を割りまくっている)、体力が「ダメかも」状態だったので、両足が足悲鳴を上げていた。走っている車も核戦争後くらい少ない。楽しい行事の後、徐々に日常に戻っていくあの感じが一番好きで、一番嫌いでもある。なんなんだあれは。家に到着するまでの数十分じゃ処理できない感情のせいでふにゃふにゃの脳に電極をぶっ刺さなくてはならないところを何とか耐えて、帰宅した。

 結局のところ、僕は悪い意味で何も変わっていなかった。話すとあの時と何ら変わっていないような皆だったけど、感覚的にこちらが数週分遅れている気がした。事実大幅な遅れを取っていて、何も成長していない。あと一日休めば建前上は留年という厳しい出席争いの末に何とか高校を卒業し、浪人して大学に受かったが、やりたいこととやるべきことの乖離に苦しんで単位を落としまくっている。自分は不幸な人間なので逆境に向かって頑張っている方だと思っていたが、全部間違っていたらしい。どうしようもない奴だ。

 でも、そんな自分に対しても「久しぶり」と近付いてくれたり話しかけてくれたりしてくれた元同級生達がいた。他人の存在は自分の存在意義に大いに関わる。誰かが見ているわけではないけど、感情が表に出ないようにできるだけ遠くを見ながら、平均台の上を歩く時のような目で帰宅した。家族はとっくに眠っていた。ちょっとずつでも何かを頑張って前に進まないといけないなと、ごく当たり前のことを本気で思った。何かを得られる過去は、きっといい過去だったに違いない。ありがたい。

 余韻冷めやらぬ中、翌日の僕は新幹線のぞみ号で第2の故郷京都へと向かった。実に2週間ぶりの京都だ。向こう数年はこの場所を軸にして生きていかなくてはならない。まだ進路があやふやだけど、支えてくれた人達(この記事を読んでるそこのあなたも!)のために、なるべくいいものを作りたい。こんなことでしか恩返しができないんだから。

 思ったより自由席に余裕が無く、今月のデータ容量も底を突いたので、岡山から京都に着くまでの1時間、出入り口付近で風景を見ていた。車窓から見える風景はそんなにキレイなものじゃないけれど、手元にあったAndroidで写真を撮った。岡山県立図書館で借りた筒井康隆全集を3割しか読めていないことがなぜか急に気がかりになった。

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