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言葉の無粋さを乗り越えるために

文章を書くということはなんと無粋なことだろう。

書きかけの文章を一度頭から読み返してみると、その文章によって論じられようとしている対象(それは音楽だったり映画だったり身の回りで起こったちょっとした事象だったりする)の重層的で多義的で刹那的で曖昧模糊としていながら確かにそこにある存在感とその手触りに対して、それを語る言葉の方はあまりに断定的で一義的で作為的で、その割に意味不明で、本当にげんなりしてしまう。なんだこれ。無粋極まりない。

そんなふうにして打ち捨てられた文章が、下書きフォルダに屍のように累々と積み重なっています。この文章だって、陽の目を見ることになるかどうか分からないまま書き始めたもののひとつであり、まぁ書き出しからしてかなり危うい。

なぜそんな愚行を繰り返してしまうのかといえば、何かについて書き残しておきたいという衝動が起こる時のその「何か」は、往々にして重層的で多義的で刹那的で曖昧模糊としていながら確かにそこにあるようなものだったりするからであって、その重層性や多義性や刹那性を言葉で言い表す技術のない人間が無理にそれに触れようとするもんだから、ことごとく意味不明で無粋な文章が出来上がってしまうのです。

いや待て。技術ってなんだよ。そういう問題じゃねーだろ。何か思い通りにならないことを技術のせいにしてしまう。そういうとこが無粋だって言ってんの。

目の前の曖昧で捉えどころのない世界を、細かく区切られた概念の中に押し込めて整理して、理解しやすいように象ろうとする。言葉が元来持つそうした恣意性に気付く時、僕は「言葉は圧倒的に現実に負けている」と感じてしまうのです。
とはいえ世の中には、現実の重層性や多義性や刹那性や曖昧性を言葉によって見事に捉えた素晴らしい文章がちゃんとあって、これまでだって僕はそれらに影響されて生きてきた訳で、言葉そのものを無粋だなんてディスるのは全く本意ではないのです。
だいたい全ての言葉が細かく区切られた概念だとして、例えば「刹那」という言葉ひとつの中にどれほど深遠な時間や宇宙の認識に関する思想が詰まっているのか永久に理解できることはないであろう私ごときが、言葉は現実に負けてるなどとうそぶくなんて一千那由多早い。

だから、やっぱり自分にはその技術がないのだな、と思う。
同時に、だから技術とかそういう話じゃねーんだよ。とも思う。
ダルセーニョ。


音楽。
その中でも「歌」という表現形式にいつも魅了されてきたのは、あくまで言葉は手放さず、それを非言語的な表現と混ぜ合わせることで、言葉にした瞬間に奪い取られてしまう重層性や多義性や刹那性や曖昧性をその音の中に記録することができるからなのかもしれません。十代の頃から、ちっとも上達しないくせに歌を作ることを止められないでいるのは、きっとそのせいなのでしょう。

今年書くことを挫折した文章のひとつに、7月に劇場公開された『映画:フィッシュマンズ』について書こうとしたものがありました。フィッシュマンズの音楽を前にして、僕の書く言葉は完全に蛇足で、無粋で、圧倒的に負けていて、だからこれも打ち捨てられる運命を辿ったのでした。

そうだった。
技術とかそういう話じゃねーんだよ。というこの内なる反発は、フィッシュマンズについて考えた時に得たものでした。
映画を観ると、フィッシュマンズというバンドの(特にリズム隊の)凄まじいグルーヴと安定感はライブバンドとしての経験値と絶え間ない練習によって裏打ちされていたことが良く分かるし、ソングライティングも含めてとても高い技術力に支えられたバンドだということが良く分かるのですが、佐藤伸治の歌う言葉には、たまに小学生の作文のような技巧とは遠くかけ離れた、稚拙とも言ってしまえるような率直さが顔を出す瞬間があって、リズムに体を揺らしながらふとそうした言葉が飛び込んできた時に、突然泣いてしまいそうになったりするのです。例えばこんな歌で。

きらいな言葉 言わないから好きさ
タバコを立ててすわないから好きさ
いっしょうけんめい話すから好きさ
わかったような顔しないから好きさ
自分の言葉で話すから好きさ
悪口ばかり言ってるから好きさ
ただ ただ楽しい あなたが好きさ
暗い僕を盛り上げるからね

フィッシュマンズ「チャンス」

そしてなぜこの言葉に心震わされるのかと考えれば、言葉の意味だけを切り離して眺めてみても駄目で、発声のニュアンス、リズム、メロディ、それらがどの要素が前に出るともなく混ざり合っているからなのであって、それを言語的に捉えようなんてやっぱりどこかに無理が生じるのです。ていうかこの部分の歌詞にしたって、ネガの言葉とポジの言葉の対比とか、メロディのシンコペーションに対しての發音・促音・長音の入れ方とか、もう完っ璧だし、これが稚拙なはずがなくて…ってほら、またこれだ。
こうしてまた僕は無粋な言葉を重ねてしまうのであります。

とはいえこうした逡巡までも拾って書ききることで、願わくば今日のこの文章が蛇足でも無粋でもなく、断定性や一義性や作為性から少しでも離れたものであらんことを。
そして、文章を書く人であれば誰しも中学生くらいの頃にとうに乗り越えているであろうこんな悩みを主題にせずに、来年はがんばってもうちょっとnote書くね。などとつぶやきつつ、今年もまだあと二週間ほど残してますが、これで書き納めとします。半年に一回しか更新しない奴があと二週間の内にまた投稿するはずないもんね。
この一連の文章をようやく書き上げることで改めて自分がテキストを書くことに不向きであることを再確認した僕は、来年はポッドキャストを始める予定です。それについてはまたいずれ。

コーダ。



どうもありがとうございます。 また寄ってってください。 ごきげんよう。