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世界は分けてもわからないから…

WDA note部ワークショップデザイン Advent Calendar 2019用の投稿です。

納得感の違和感

今ちょっと振り返ってみたら、今年一年でnoteに32の記事を投稿していて、数は別にどうという話ではないんですが、今年の頭に投稿したものに、自分がファシリテーションの世界の入り口に立った瞬間を切り取った記事が残ってました。

ファシリテーションのファの字も知らないところから手探りでやり始めたところ、実は大学の恩師がファシリテーション研究をやっていたことを知って連絡を取ったのが、ちょうど一年前。
そこから、大して多くの実践経験を積んだ訳でもないですが、いくつかのワークショップに参加したり、そこで得たものを自分の仕事の現場で活かしたりということを繰り返しつつ、いつの間にかWDAに参加し、こうしてnote部の記事を書いてます。あと、あんまり良く分かってないけどアドベントカレンダーってやつも兼ねてるみたいで。

ところで、note部への参加表明をしておいて今更なんですが、正直文章を書くことが割としんどい。

そこそこの頻度でnoteを更新する中で、最近そのことを自覚するようになってきて、このしんどさはなんだろうと考えてみたんですが、一言で言うと…

複雑で曖昧な感情が言語化されてしまうことへの違和感

と、まさにこうして一言で言い切ってしまおうとすることに対する違和感!
そしてそれに納得感を覚えてしまっていることへの違和感!

なんだかトートロジーみたくなってますが、もう少し具体的に説明します。

僕がnoteを書こうと動機付けられる時はだいたい、何か複雑で捉えがたいものに出会った時に「あ、こういう切り口で語ると理解できそうだ!」と思った瞬間です。ところが、書いていくと自分が見つけたと思った論理が破綻や飛躍だらけであることに気付いてうんざりする。あるいは、大して面白い話でもないことに気付いて愕然とする。あとは、前にもほぼ同じようなこと書いたわ…って気付いてしょんぼりする。

それでもなんとかそこを乗り越えようと書き進めると、結局もともとあった複雑性は失われていって、それなりに納得しやすい端的な結論に収斂されていく。そんな自分の論理的思考力の低さに落ち込む訳です。

例えば「ガンプラは写経だ!」と言い切ってしまった時、それによってある種の真理に達したような気持ち良さが引き起こされますが、その実、そう言い切ってしまった時点で、その定義に収まりきらなかった細かな印象や感情が無視されてしまうことになる。という話も少し前に書きました。

といって、別に「言語化して理解しやすくすることは良くない!」ってことを言いたいんじゃなくて、それがちゃんと出来るってすごく高度なことですよねってことを、今日は書いておきたいんです。

ワークショップという複雑な場を体系化するということ

WORKSHOP DESIGN ACADEMIA(WDA)のいくつかのイベントに参加したり、動画コンテンツを視聴していてユニークだなぁと思うのが、ミミクリデザインさんの、企業の商品開発やまちづくりなどの領域を越えた実践から得たフィードバックと、アカデミックなワークショップデザイン研究の両輪からコンテンツを生み出しているところです。

ワークショップという、複数の人間が関わって、それぞれの状況によって無数のバリエーションが生まれるような複雑なものを体系化するって、実はすごいアクロバティックなことのような気がするし、下手をすれば言語化によって単純な論理に押し込められてしまいそうですが、それを細かいフレームで切り取って見せていくことで、複雑性も残しつつ経験知をちゃんと言語化していく。というのが、WDAが提供しているコンテンツのとても優れたところだと思います。しかもそれが、実践を伴うことで日々更新され続けていく。そこに会員との相互作用も加わって、永久に更新されていく運動体になる。

▲大量の動画コンテンツ

と、書いていたらなんだかだんだん勇気づけられてきました。
案外、言語化に挑み続けるのも悪くないかも。

今日も今日とて何を書こうか全然整理できずに書き始めたので、ちょー雑だし、めっちゃWDAのこと褒めてるからステマみたくなっちゃいましたが、とにかく「分かった」と思ってそこに止まることをせずに転がり続ければそれでいいんだな!って思えてきたので、これからも書き続けます!

どうもありがとうございます。 また寄ってってください。 ごきげんよう。