常識は変わる(Ⅱ)
(以下も、取るに足りない独り言です)
◆多数派の方向論に疑問を
世の中には、「あれっ?」という類の、見過ごせない事象があります。
知的・統計的な感覚ではなく、胸騒ぎ的な電波が教えてきます。
一般的な視界に入らない、外されがちな事象があるのです。
口外・公言はしません。考えすぎということにしておきましょう。
5年、10年は自分のなかに仕舞っていることもあれば
もっと短期間に、「やっぱりか」と納得し得る事象があります。
それがどういうものかは、言えません。よくない話だからです。
いい話ならどうでもいいのです。害がないからです。
予言者みたいなことはできませんが、悪い予感は当たります。
結局のところ、残念なことが多いのです。
脇道を歩いてきたことで、ノイズはなく、勘が働くようです。
ノイズがないので、人とは違った事象や結果を見てしまいます。
したがって、できるだけ婉曲な表現を用いるようにします。
無学でありながら、我流の考え方を多く開発してきました。
知識欲なんか、私にとって無縁なのです。
必要な知識なら、クライアント側に潜在しているものです。
◆変化の兆しに感じる能
世の中
何か変化の兆しがあるとき、気づく人気づかない人がいます。
見える人と見えない人、あるいは、少数派か多数派か。
人類の多数派の判断材料は「証拠(エビデンス)」です。
それを、科学的・客観的にとなれば、間に合いません。
それらの反省点を積み重ね、歴史は繰り返しています。
それが多数派の行動パターンといえるかもしれません。
その人の常識によって、それが変化かどうかがきまります。
それが危険なものかどうかは、その人の常識で異なります。
それでも、事実だけはその潮流のなかで生きているわけです。
気に掛ける事象かどうか、認識がそろうものでもありません。
それでも、事実だけはその潮流のなかで進行しているわけです。
感覚力、経験則、想像力、連想力、推理力などによって
問題にする・しないは、人それぞれです。
認識論に見られるように
それによってアクションの備えや速度は違ってきます
自信がなければ、アクションは優柔不断になるでしょう。
人類は、そのための本能をもち合わせていないようです。
一斉に同じアクションをとることなど、人類にはありません。
人類のアクションは、多数派や独裁力によって形成されます。
本能の弱い人類は、欲望とこころでしかアクションをとりません。
そのなかで、多数派は「様式や正解」を是とする傾向があります。
でも、多数派の認識や選択が正しいとはかぎりません。
多数派というのは、後付けで育つことも少なくありません。
「そっちへ行ったほうがよさそうだ」と。
◆多数派とは何か
もとはといえば
個人の成功が多数派に拡大することも一つの傾向です。
いわばその個人が異端者であっても、成功があれば寄っていく。
発明・発見などは、その分かりやすいケースといえます。
そうして多数派ができる。人の認識って何者なのでしょう。
「みんながそう言っている」「みんながそうしている」
そういう旅の計画は、名所を重点候補に挙げるのでしょう。
旅の概念・目的には、人類の傾向が見えるようです。
およそ、多数派尊重の行動様式が一般的なのです。
アクションの理由は、多数派のきめた理由になるのです。
人類のその行動則が、進化の速度を上げるのでしょうか。
多数派は、本当に平和に向かっているのでしょうか。
多数派は、たんに多数派に向かっているだけでしょうか。
多数派とは何か。多数が大切なのか。
多数決。たしかに行動を優先化するうえで一理あります。
しかし、それには感情論や乗りの助けもありでしょう。
常識とは、多数派の所有するエートスなのでしょう。
一般人がもち、また、もっているべき知識?
専門的知識でない一般的知識とともに
理解力・判断力・思慮分別などを含む…、その常識。
「だれもが共通してもっている知識や分別」
でも、常識は変わる、逆転もします。いつの世も
無常の世の中ですから。
突然変異の常識。
それによる自然淘汰が、いま求められています。
それが進化というものです。