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16:退院日決定と課題

写真は退院後だいぶしてから串揚げ店で夫と。

退院の日どりが決まったら、ラジオ復帰とかいろいろな話を友達が振ってくれて、私もできるならラジオをしたいとか言っていたけど正直どこまで回復するかなぁと、伸び止まり感が半端じゃなかった。

あと20日だけど、本来もっと早い予定だったから、カリキュラムは目標値までほぼ終わっていた。それより先に進み始めると作業的な困難な部分などが出始めて、「頭打ち感」を強く感じた。

1-2-3-…など数字の順番でランダムに配置された点を探してつないでいくと図形ができてくる点つなぎは、線を目で追っていると数字を見失う。

同じ図形を描いてみるテストは右手で思った位置に絵が書けないため下手くそでも左手で書いたほうが思った位置に書けるくらいだった。「漫画家だったなら絵を練習してみて書けるようにしてみたら」、と療法士のTさんに言われたが正直、書けるとか書けないのレベル以前に左右対称、また右側に近いほど線が描けなくなった。以前の絵柄が見たいというので見せたところ、「ああ、そんな感じだと思わなかった…そういうのだと難しいかもしれないね確かに」と言われた。「もっとヘタウマみたいなやつかと…すごく絵柄が細かいんだね」それはよく言われた。

ラジオの印象でもそうだし、病棟やリハビリで話していても、わたしが割と粗い性格だしざっくばらんなので、絵柄もそんな感じで想像されていた。右手の麻痺だけならあるいは何とかなったかもしれないが、脳の右半球無視からくることが大きな原因なので、絵を描くというのは今後現実的ではないだろうしあまり考えたくなかった。直面したくなかった。

ほぼ仕事中心で生きてきたので、今全く描画が出来なくなったということに目を背けているし今後どうするかは未定だ。

感覚としては疎遠になった友達が実は死んでいるのをわかっているんだけど、認識したくないから「友達は遠くに行っていつかまた会える」と思い込むのに近い。だから直面しないで放置していたらある朝また何でもないようにいきなり書けるように元通りに戻ってる奇跡があるかも…なんて。

10月のトークイベントの時にプレゼンで使うイラストを描いたとき、楽しかったので、今後は仕事以外の絵も時間をみつけて描けたらいいなと思ったりした。そんな矢先だった。あれが最後になったなのは悲しい…。

病院でも少し描いたが無理が分かった。だから今は絵のことは考えから遮断したい。漫画家になって約20年。それだけで働いてきたのでいまはちょっと現実感が持てないというのが近いか。

他のことに関してはわりと取捨選択をバサバサつけれるんだけど。

字の練習のほうは根気よく続けていた。決まったマスに書けないなどはあったが住所と名前を書けるようになって退院するのがTさんとの目標だったのでそれは達成できた。最初は頭の中に浮かんだ字が逃げないように急いで書いていたがそれだと字のバランスが悪く、右上がりになったり斜めになったりした。

「状態としては一度なくしてしまった引き出しのカギを開けて中から文字を取り出すようなイメージ。だから習ったことのない元々書けない字は書けません。これはあくまでできたことを再度取り戻す作業なので、新しい字をおぼえることは考えないでください」というようなことを聞き、しんにょう、とかうかんんむりとか、よく使いそうな字を頭につめこんだ。書き取りの練習をできないときでもとりあえずパソコンかスマホで活字に触れていたらだいぶ違った。

びっくりするのは、アルファベットだとスラスラ書ける。いかに日本語が難しいかだ。アルファベットは数も少ないし。

Tさんも面白い人だった。いろいろな武勇伝を持っていた。

病院にはコンビニがついていて夫が面会日のときは一緒にコンビニに寄ったりした。…このままダッシュで守衛さんを振り切って外に出てやろうか…そんなことを考えたが今それをやったら何もかも水の泡になってしまう。そう思って我慢した。快適とは行かないけどまぁなんとなく暮らしも慣れたし。

他にも病院内に入っている喫茶店に夫と出かけた。一般の入院患者さんが外来で来ていたりするから半分室内着みたいな格好で行くのは恥ずかしかったけどここだったらまぁ…と開き直ってジャージでうろうろした。
入院食はメルルーサ率が高かったので普通の食事がどれも美味しく感じられた。私的病院グルメはチンするハンバーグと時々夫が密輸してくれるケンタッキーと、チョコレートケーキ、密輸イクラとラーメンと…後はお見舞いでもらったたくさんのチョコ、おせんべい、デカビタC大体そんな感じでできていた。後半も後半になってきたので食に関しては禁止もないしやりたい放題だった。

この期におよんで、視界と動作のズレが左にも出たりすることがあり、脳梗塞は写真を見ると実は全体的にあったと聞いたが、症状としては右半身にでているので気にしないことにしよう、ということになった。とにかく退院が延びるよりは物凄い異変でもない限り現状維持…というか。

なにかあったら今後は暮らしの現場で対処していこうと。

本当は退院はさらに先になる予定だったそうだが、とにかくこれ以上の入院はわたしが限界ぽいので、年をまたがないで退院できることになった。面談の時に食い下がりまくってよかった。

時期的にクリスマスなので、クリスマスの演奏会があることを聞いた。普通だったら全く興味ないはずだったけど、なんとなく行ってみようかな、という気になった。今までに病棟でレクリエーションなどがあるのは知っていたし、瞼の母だとか青根崎心中だとかめちゃくちゃ渋い演目あだなあと思っていたが、高齢者中心のセレクトなので案が得てみれば当然だ。

見に行ってみようと思ったことはなかった。(夫は興味があるみたいで、紙芝居開催の看板を見ていたけど)曽根崎心中は一人で病棟にいるときに音が聞こえてきた。紙芝居を語っていたのは看護師さんの1人だったけどなかなか情感たっぷりだった。実際見に行ったらなにかのネタになっていたかな?などと思いながら、クリスマスコンサートかぁ…とだいぶ気になっていたところ、例のリハビリのハーレイちゃんが「行きましょうよコンサート」と誘ってくれ、一番前の席に引っ張っていかれた。

コンサートは病院関係者や、病院の吹奏楽部活動をしてるかたたちなど有志で行われ、短い時間だったが思っているより大規模、にぎやかだった。なんとなく今までのことを思い出してうるっときた。まったくもって楽しい思い出ではないし、ある日突然降ってわいた災難以外の何物でもないが(入院は)お世話になったひとたちや、徐々に回復していった体調などを考えると色々と感慨深かった。

その30分程度のクリスマスコンサートが終わり病室に帰るとき、ちょうど面会にきた夫がコンサートに遭遇して、迂回しながらこちらに来るのが見えた。

コンサートを見に行ってたのがバレたらちょっとはずかしいじゃないか…と思いながらも、私が色々なことに参加したり積極的に人と話すと夫が嬉しそうにするのは知っていたから、「行ってきたんだよ」と報告した。いままでも病気以前から私の友達などに私がトイレに行って中座したりするとそのタイミングですかさず「今日は遊んでくれてありがとうね、これからも○○(私の名前)をよろしくね」なんて言ってしまい、ひそかに友人らに「お父さんか!」と突っ込まれる、そんな人だった(笑)

コンサートも終わり、夫と数日後の退院の話になった。退院したら何をしたいとかそんな話をしたりして、12月22日にはM1グランプリがみたかったから初めてビデオカードを買ってみた。

いままで、病室は何かと人が出入りするし、夫などがDVDプレイヤーを持ってきてくれて暇つぶしに見ていたけど、何を見てるのか覗かれるし落ち着かなかったからカードまで買って見る気にはならなかったのだ。

もう退院間近だから周囲のことは気にせず、ちょっと消灯時間にかぶっていたが最後まで見た。そのころ、最後の入浴があった。そのとき初めて全部自分のことは自分でしていいようになった。髪も体も全部洗い終わったらブザーを鳴らして看護師さんを呼んだ。最後まで完全にフリーにはならなかったし、退院したら恐らく色々と大変なことは想像に難くなかった。

退院の日は夫が部屋を温めて猫と一緒にクリスマスツリー再びを飾って待っていてくれる算段になっていた。退院の前日に部屋にあった荷物をまとめておき、タクシーで退院した。本当にたくさんのかたにお世話になった。今でも思い出すと涙ぐんでしまいそうになる。…以前、急性期病棟にいたとき、CT検査の番待ちをしながら車椅子を押してくれる看護師さんに「なんでこの仕事しようと思ったんですか?」とたずねたことがあった。

ややあって「…うーん、なんででしょう。やっぱりやりがいあるんですよね。最初全く動けなかった人が、元気になって退院していく姿。見たら、やっぱり頑張ろうって思う。…でも退院したらみんな、入院中のこの(急性期)病棟のことも私のことも忘れちゃうんですけどね。」と笑った。ドラマでの会話のような動機、しかしまぎれもない真実。

本当に激務だと思う。そんななか、真っすぐにそう答えたその看護師さんとはそれきり会わなかったけれど、今でも覚えているし多分忘れない。

お世話になった方々に挨拶して、「元気になったらこれをネタに何か描いて持ってきますよ。」なんていったが、描くのは実現しそうにないかな。とも思った。家に着いたらしたいことがたくさんあったけどまずは美容院に行きたかった。

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