見出し画像

「Bye Bye My Love(U are the one)」1

【第1話】

玄関に花を飾る。
マニキュアを塗る。 今日は土曜日。
目覚めた時から胸が高鳴る。


11時。
彼に会える。
彼がやって来る!


家の中を片づけながら、そわそわ。
時計とにらめっこ。

あと15分・・・10分・・・

カウントダウンに胸が苦しくなる。
緊張で全身がピリピリする。
じっとしていられない。


・・・ああ。
こんなにときめいてどうするの?私。
まさか、本気で好きになったわけじゃないでしょう?
・・・そう。ただ緊張しているだけ。
それだけよ。


学生の頃から苦手だった英語を覚えなくてはならなくなった。
商社に勤める主人がワシントン支社への転勤を内示されたのだ。


アメリカに渡るのは3ヶ月後。
8才の娘にとっては、生きた英語を身につけられる絶好の機会と言えるだろう。
最初は戸惑うかもしれないが、子供同士で遊んでいく中、
自然と英語を獲得していけるはず。


・・・問題は私。
日常生活に必要な英会話だけでもマスターしておく必要がある。


そこで、主人が社内で英語の堪能な若者を捜し、
その方に週一回、自宅に来ていただいて、教えてもらうことになった。


それが彼。
木村秀明くん。
去年の秋、ロスの支社から帰国したばかり。
25才。
すらりと背が高く、落ち着いた顔つき。
でも、少し長めの前髪と
時々イタズラっぽく光る瞳が少年っぽさを感じさせる。


英語のお勉強なんて、学生に戻ったような気分。
若い木村くんが先生だと、その生徒である自分が、
はたちそこそこの女子大生に戻ったような錯覚さえする。

・・・厚かましい錯覚だとは思うのだけれど。


三十を過ぎた。
子どもも産んで、体型だって見るも無惨。
しかも、同じ会社の隣の部の課長の奥さん。


・・・こんな私に、彼が興味を持つはずはない。
ただ、頼まれたから、教えに来てくれるだけ。
そう思うと、ちょっと悲しい。
だけど、だからこそ安心して、木村くんに夢中になれる。


恋する気分に酔っているのかもしれない。
長い間、忘れていたときめき、ドキドキ感、自由な感覚。
そう、自分が「女」であることすら、忘れていた。
慣れない家事や育児に追われて、
自分自身を振り返る間もなく月日が過ぎて行った。
・・・ようやく、私は自分自身を取り戻せたような気がする。


洗面台の鏡に映る自分に、にっこりと微笑み掛けた、その時。
インターホンが鳴った。

彼だ!!

胸がドクンと大きく脈打ち、かかとが宙に浮かぶ気がした。
鏡の中にいる私は、花のようで、
まるで別人に見えた。

【第2話】 

「あれ?課長は今日もゴルフですか?」

背の高い木村くんがリビングに入って来る。
今日は3度目のレッスン。


「ちなつちゃんはスイミング?」

4人掛けのダイニングテーブルに掛け、大きなバッグからテキストを取り出す。
その横顔の美しさに、うっとりとする。
南向きの窓から入る風に彼の髪がサラサラと揺れて光る。
色素の薄い茶色い瞳がまっすぐに私を見つめる。

・・・お茶を出す手が震えそう。


「じゃあ、この前の復習から行きましょうね。」

テーブルに差し向かい。
静かで緊密な時間。
少し甘くて優しい木村くんの声が私を包む。


「そこ、ちょっと発音が違いますね。いいですか?
僕の口を見て下さいね。」

彼がじっと見つめて話しかける。
私は、その口元を見つめる。
少し薄目のきれいなくちびる。
前歯がかわいい。


「Lは舌をね、こんなふうに。」

・・・ああ。このLの舌は、何度見ても赤面しちゃう。


「大丈夫ですよ。リラックスして、普通の、普段通りの気分で、ね?」

彼の言葉はなんて力強く私を抱きしめるの?


私は商社に勤めていたくせに、英語はからっきしで、
その上、歯並びも悪い。
口元を見られるのは、本当はとても恥ずかしい。
だけど、英会話を教えてもらうためには、仕方ない。

これまで密かに一番気にしていた私の恥部。
それを木村くんには、あっさりさらけ出してしまったことで、
私は彼に妙な安堵を感じるようになっていた。

一時間のレッスンタイムは夢のように過ぎる。
途中まで下準備しておいた「あさりと菜の花のパスタ」の仕上げにかかる。


彼の目の前で、白いエプロンをつけて

「食べて行ってね。」

と声を掛けると、

「え?ええっ?!いいんですかぁ?」

ドギマギした声で照れる。
その反応がおもしろくて、わざと彼の前でエプロンをつける。
先週、新しいレースのエプロンも買った。


木村くんは2つ駅向こうの街のワンルームで一人暮らし。 できるだけ栄養をつけてあげたい。

料理ができるまで、いろんな話をする。

昨日、見たテレビ。
最近、流行っているヒット曲。
彼の話は、とてもおもしろい。


一番盛り上がるのは、職場の話題。
木村くんの所属は、実は以前、私がいた部。
隣の部の主人と社内恋愛し、結婚退職したのは8年前。
あれから人事も変わったし、コンピューターによる電算管理も進んだけれど、
それでも仕事の内容は基本的に同じ。


「今週中に上期の目標数値を揃えなきゃいけないじゃないですか?
必死なんですよ、みんな。
それなのに千田部長ったら、5時から
『おい!ちょっと会議しようか。』って言って2時間拘束!!参っちゃう。」

「ああ、千田さんはねぇ・・・。昔からそうだったわよ。
急に『この資料を作ってくれ。』って言われたり。しょっちゅうだったわ。」


木村くんが仕事上の軽い愚痴をこぼしても、
彼の気持ちが何かにつけ細かな所まで、よくわかる。アドバイスできる。


「僕がこんなこと言ってたって・・・課長には内緒、ね?」

「うん!内緒。」


片目をつむって合図し合って、ドキドキする。
たわいのないことだけど、二人だけの秘密を持てた気持ちにキュンとする。


「彼女とはね、こんな話できないんですよーー。」

「ああ。そうでしょうねぇ。」


そう。木村くんには婚約者がいる。
同じ会社の受付嬢。
ロス帰りのエリートと社内一の美人。
知らない人は居ない噂のカップルだと主人が言っていた。


受付の仕事だと、彼の仕事の実状なんて全く目に入らないだろう。
彼女に愚痴る訳にいかないのも当然だ。


木村くんの左の薬指の指輪が銀色に光る。
光が矢となって私の胸をチクリと刺す。

・・・関係ないわ。別に。
木村くんに彼女がいたって、いなくたって、
私は彼が好き。それだけよ。


彼女になれるわけもない。
特別に愛してもらえるはずもない。

ただ週に一度、差し向かいで話せるこの小さな幸せ。
これさえあれば・・・他には何も望まないわ。


パスタがゆで上がった時、スイミングのスクールバスが家の前に停まり、
娘のちなつが帰って来た。

台所に立っている私の代わりに木村くんが玄関を開ける。


「わぁ!きむらくんだーーー!!」

「ちなつちゃん、おかえり!お疲れさま。」


無邪気に木村くんの胸に飛び込み、抱きしめられる娘に嫉妬を覚える。


「何も望まない」と今、胸に誓ったばかりなのに・・・
あんなふうに彼と抱き合いたいと夢見る自分に、少し呆れた。


【第3話】 

5回目のレッスン。

今日は朝から、しとしとと雨。
ひんやり潤った風が窓から流れ込んでくる。


「んーー、テキストにはこう書いていますが
実際はもっと砕けた言葉で話しますよ、みんな。
だってね、僕が初めてロスの郊外でバスに乗った時、
黒人のおじさんに話しかけられて。
『にぃちゃん、よくそんな難しい言葉、知ってんなぁ!?』
って言われちゃったんですよ。
受験勉強で覚えた単語だったのに!」


懐かしそうな目をして照れたようにはにかむ木村くん。

つられて私まで笑顔になる。

瞬く間に、もう12時。
レッスンの時間が終わる。

長針と短針が重なる時計を見て胸が苦しいなんて、
ちょっとシンデレラの気分。

でも、パーティーはこれから!
今日は木村くんの誕生日。
彼の好きなハンバーグと野菜たっぷりのポトフを用意している。


「もうすぐ、ちなつも帰って来るわ。お昼、食べて行ってね!」


エプロンをつけながら、いつもより張り切って声を掛けると、
木村くんが困ったような顔をした。


「あの、・・・今日は・・・・」


話しかけた時に彼の携帯が鳴った。
画面を見て、彼の表情が変わった。
彼女からだった。


「あ、もう駅に着いた?・・・うん。そこで待ってて。俺が行くから。」


彼の声がいつもと違う。
私と話す時は甘えたような口調なのに、
彼女には少し格好をつけたような口ぶり。

・・・「俺」って言うの、初めて聞いた。


「ごめんなさい。そう言えば今日はお誕生日だったわね。
彼女とお祝いしなくっちゃあ!早く行ってあげて。」


精一杯の笑顔で彼を玄関に追い立て、傘を手渡したその時、娘が帰って来た。


「あれぇ?きむらくん、もう帰っちゃうの?!」

「ごめんね、ちなつちゃん。また今度ね。」


娘を軽く抱きしめ、私の方に向き直り、
心から申し訳なさそうな瞳で


「ごめんなさい。また来週お願いします。」


そう言って頭を下げ、彼は雨の中を彼女が待つ駅へと駆けて行った。

リビングに戻り、椅子に腰を下ろすと・・・思わずため息が出た。


私はなんてバカなんだろう?
彼といっしょに誕生日を祝えるつもりでいたなんて。
なんて、おめでたいの?


こんな日にいっしょにいたいのは私なんかじゃない。
さっさと用事を済ませて、一刻も早く彼女の元に飛んで行きたいに決まっている。


「あ~~っ!冷蔵庫にケーキがあるぅ!!どうしたの?これ。」


目ざとい娘が見つけた。
でも、引き出しにしまったプレゼントの包みにまでは気づかないようだ。
彼に似合いそうなシンプルなデザインのネクタイピンを用意していた。

と、その時、テーブルの隅に彼の定期入れが置き忘れられているのに気づいた。
娘に留守を頼み、傘を差し、駅へと急いだ。

男の人の足は速く、駅のすぐ近くまで来て、やっと彼に追いついた。
木村くんは駅舎で待っていた彼女に声を掛けようとしたところだったが、
私の声と手に持った定期入れに気づくと慌てて引き返して来た。


「うわぁ!すみません!!」


恐縮して、何度も彼は謝った。
久しぶりに走って私は、すっかり息が上がる。
傘を差していたけれど、髪も肩もすっかり濡れてしまった。


「そうだ。さっき言い忘れちゃった。
お誕生日、おめでとう!!」


すると彼は少し驚いたように目を見開き、それから、嬉しそうに照れて笑った。
彼の笑顔にはどうしてもつられてしまう。
こちらまで幸せな気持ちにさせられる。


ふと視線を感じ、目をやると、彼女が不機嫌そうにこちらを見ていた。


なるほど、噂にたがわぬ美人。
ヘアメイクも、ファッションも、アクセサリー、靴、バッグに至るまで隙がない。
雑誌から抜け出たようだ。

木村くんが私を紹介した。


「こちら、森内春香さん。ほら、企画課の森内課長の奥さんだよ。」

「はじめまして!木村くんにはお世話になっています。」


親しみを込めた笑顔で愛想よく丁寧に挨拶したつもりだった。
しかし、彼女は


「あ。ども。」


目も合わさず、くぐもった小声でそう言っただけだった。
あまりにも失礼な態度に木村くんが怒り出すのではないかと
一瞬、ハラハラしたが、何も起こらず、
私の自意識過剰であったかと思い返した。


「本当にありがとうございました!じゃ、失礼します。」


彼が一礼し、駅の構内へ入って行こうとしたその時、
彼女が木村くんの腕をそっと取り、私を振り返った。

満面の笑顔でにっこりと、勝ち誇ったように微笑まれて、
私はその時、初めて彼女と目が合ったことに気づいた。


雨に濡れて、ぺっとりと肌に張り付いたシャツが冷たく、気持ち悪かった。

*******************

2002年に書いたサザンの曲を基にしたオリジナルの物語です。

全18話。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます…! 「おもしろかったよ~」って思っていただけたら、ハートマークの「スキ」を押してみてくださいね。 コメントもお気軽に!