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「Bye Bye My Love(U are the one)」3

【第7話】 

困った。
木村くんの囁き声が耳の奥から離れない。
優しいまなざしに抱かれた心地よさにおぼれる。
私を求めて伸ばした彼の右手がいとおしい。

互いに何気なく気持ちを告白してしまったあの日以来、
ずっと彼が私の胸に住みついている。
どんどん、どんどん大きな割合を占めてきて、他の事が考えられない。

洗濯物を取り入れている時も、
夕飯の支度をしている時も、
娘のちなつから話しかけられている時でさえ、ぼんやりとしてしまう。


「もう!ママったら。また、ちなつの話を無視するぅ!!」


ちなつの怒った声で、ようやく我に返る。
こんなに、心ここにあらずの状態でいいわけがない。
それなのに、どうしようもなく気持ちがふわふわと落ち着かない。


水曜、木曜、
次のレッスンが近づき、ドキドキと動悸が止まらない。
金曜日、
明日、木村くんに会えるのだと思うと、嬉しさと恥ずかしさで胸が痛い。
一体、どんな顔をして会えばいい?
鏡台の前で手鏡を眺め、思案しては、甘く苦しいため息をついた。


そして、土曜。
一番お気に入りのサマーニットを着て、サーモンピンクのマニキュアを丁寧に塗った。
あと少しで彼に会えると思うと、途端に鼓動が早くなり、指が震えて、なかなかうまく塗れなかった。

ところが。
どういうわけだか、その日に限って、主人は出勤しなかった。
これまで、ずっと土曜は留守だったのに。


「なんだ?休みだってのに、そうそう仕事ばかりしてられるか。
俺だって疲れてるんだ。」


そう言うから、布団を上げずに置いたのに、
主人はさっさと着替え、木村くんをリビングで迎えた。


「悪いねぇ。木村。
飲み込みの悪い生徒で苦労するだろう?
簡単なことだけ教えてやってくれたらいいよ。」


木村くんは中途半端な笑みを浮かべ、所在無くテーブルを見た。
主人がいる席は、いつも木村くんが座る場所だった。

その日、木村くんはいつもは私が座る椅子に掛け、主人と向かい合い、
時折、仕事の話をしながら、淡々とレッスンを進めた。
私は、ちなつの席に座った。
一度だけ、木村くんと目が合ったが、どちらからともなく、すぐに視線をそらした。


よどんだような時間が一時間過ぎ、


「木村、昼飯、食って行けよ。」


と主人が掛けた言葉を、木村くんは軽く謝して辞した。
正直、私はホッとした。
家族が揃った席で木村くんを交えて食事する気にはなれなかった。

いつものように玄関先まで送り、別れ際に掛ける言葉を探しあぐねていると、
木村くんも何かを言いたげな目をした。


「これから上島さんとデートか?がんばって来いよ!」


不意に後ろで主人の声がした。


「俺も明日は上島常務とデートだよ。
ゴルフ場の予約が日曜しか取れなかったんだ。」


昼食の後、主人は昼寝を始めたので、
近くの大型スーパーに娘と二人、買い物に出かけた。

小さな子供用のゲームコーナーが娘の目当て。
百円でメダル10枚と交換。
それで20分間ほどいろんなゲームを楽しめるのだから、安いと言えば安い。

側の自動販売機でコーヒーを買い、
紙コップを片手にベンチに掛け、娘の様子を見守る。

コーヒーを一口、口に含み、ゆっくりと苦味を味わう。
昼前の出来事が、胸をよぎる。
「これからデートか?」と聞かれ、木村くんは「いいえ」と小さく答えた。

携帯電話をバッグから取り出し、木村くんのメールアドレスを探す。


「今日はごめんね」


それだけ打って、送信した。
すると、すぐに携帯が鳴った。


「今、いいの?」

「春香さんこそ。」


ちなつはまだゲームに夢中だ。


「今日は・・・話せなかったから。」


だから声が聞きたかった・・・という言葉は飲み込んだ。


「うん。」


もしかして、木村くんも私と話したかった?・・・まさか。
だけど、胸にトクリと熱いものが流れて震える。


「買い物?」

「うん。ちなつのTシャツを探そうと思ったんだけど、いいのがなくて。」

「この前ね、俺、見つけたんだ。ちなつちゃんに似合いそうなTシャツ!」

「え、どこで?!明日、見に行くわ。」

「あ、そう?俺も行く用があるんだ。」


ドキドキと小さく胸が鳴った。


「じゃ、明日、デートしよう。」


木村くんが明るい声で言った。
耳元で聞こえるその言葉がくすぐったい。


「えへへ」


子どものように無邪気な笑い声を上げた私に彼がもう一度言った。


「デート。ね?」

「うん!」


なぜだろう?
この時、私は夢のように幸せな気持ちに包まれて、全てを忘れて強くうなずいた。
何も怖くはなかった。


【第8話】 

待ち合わせは11時。
ああ、それまでに・・・着替えて、化粧して・・・。

起きたのは、5時。
主人に朝食はいらないと言われたが、お茶を入れないわけにはいかない。

10分で着替えと洗面を済ませ、主人はゴルフに出かけて行った。
男の人の支度はなんと早いのだろう。

高ぶった気持ちを鎮めるため、シャワーを浴びる。
今日だけは、少しでもきれいになりたい。
木村くんと並んで歩いて、みっともなくないように。
降りかかる水滴が粒になって肌を転がる。
光に輝く。
・・・今日の私は美しい。

全身にボディーウォーターをつける。
ひじ、ひざ、かかとにクリームを塗る。

濃くならないように、ていねいに化粧。
新しい下着、ストッキング、
体のラインがきれいに見えるブラウスと膝丈のマーメイドラインのスカートを身につける。

9時に、娘がのんびり起きてきた。
外出の支度をしている私に驚いた顔を向ける。


「今日、どこかにお出かけするの?」

「デパートに行かない?」

「イヤ。」


冗談じゃない。もう約束しているのだ。


「ちなつのTシャツを買いに行くのよ?」

「イヤ。デパートはイヤ。」


頑固に言い張る娘。


「困るわ。もう約束してるのに。」

「美香子おばちゃんとでしょう?!イヤよ。
ママったら、いつもおしゃべりばかりしてて、つまんないんだもん。
おばあちゃん家に遊びに行く!コロちゃんと遊びたい。いいでしょ?」


そう言うが早いか、娘は受話器を取り、自分で義父宅に電話した。
先月から義父母が飼い始めた柴犬の子犬、コロ。
ちなつはコロと遊ぶのを楽しみにしていたのだった。
突然の孫娘からの電話に義母は大喜び。


「ちなつちゃんは、うちでお留守番させればいいから、
お友達と、ゆっくり買い物してらっしゃいね。」


義母の優しい言葉が胸にグサリと突き刺さる。


「ママ!おみやげはシュークリームね。」


朝食を済ませ、娘は笑顔で義父宅へと走って行った。


時計を見る。10時。
思いがけず、一人で出かけることになった。
胸が、ドキンと大きな音を立てる。

あと一時間。
あと、一時間後には・・・
私は彼の隣りを歩く。

緊張で唇が乾く。

待ち合わせ場所に向かう途中、
何度も息苦しくなり、立ち止まった。

深呼吸して、自戒。

デートなんて、言葉の綾。
ただ、買い物に付き合ってもらうだけ。それだけ。

何度も、そう自分に言い聞かせたのに、
地下鉄の通路を抜け、エスカレーターを上がり、
本屋の横に立っている木村くんを見つけた途端、
隠しようもなく笑顔がこぼれた。

こんなに喜んじゃダメだ。
嬉しそうな顔をしたらいけない。
だけど、気持ちに歯止めが利かない。
舞い上がりそうな気持ちを抑えられない。
恥ずかしくて、顔を伏せると、彼の手を肩に感じた。


「こっちですよ。行きましょうか?」


すぐそばの耳元で声が聞こえ、私は彼の顔を見れなかった。
私は、今、彼の隣りを歩いている。
夢でないのが、夢のよう・・・。


【第9話】 

木村くんに案内されたのは、先月オープンしたばかりの話題のファッションビルだった。
デパートに向かうものとばかり思い込んでいた私は面食らった。
おしゃれな有名ショップが並ぶ最新スポット。
気後れしてしまう。


「木村くんは、いつも、こういうところで買い物してるの?」


そうたずねると、彼はちょっと目を見開き、「あはは」と笑った。


「まさか。
だって、僕、いつもそんなにいい服、着てないでしょ?」


・・・そうか。じゃあ、デートで来るんだわ。
あの彼女が、いろんな店で洋服や靴をたくさん買い物するんだわ。
だって、ここは格好のデートコースだもの。


「実はね、取引先がテナントを出してるんですよ。」

「え?そうなの?」

「ほら、あそこの『ファオマロッテ』って店なんですけど・・・」

「あ、名前、聞いたことあるよ!雑誌に載ってた。」

「うん、優良取引先ですよ。」

「すごいなぁ~!こんなおしゃれなお店が取引先だなんて。」


心から感心して言ったのに、木村くんがクスクスと笑い出したので驚いた。


「あはは。でもね、取引してるのは親会社で、
『株式会社 井阪文五郎商店』って会社名なんですよ。」

「まあ!」

「それにね、『ファオマロッテ』って・・・どういう意味か、わかります?」

「え?何語?・・・イタリア語??」

「日本語ですよ!
『ファッションは俺にまかせろって』
社長の口癖の略なんです。」

「やだ、嘘!」


思わず吹き出して、ちょっと足元がよろけ、笑いながら彼の腕をつかむ。


「本当!」


彼の瞳に優しさと力強さが宿る。
腕につかまることを、許してくれている。
私は笑いながら、おでこを少し彼の腕に寄せた。


若者向けのおしゃれなシャツが並ぶショップも、木村くんの話で、ずっと敷居が低くなった。
『ファオマロッテ』で彼が選んでくれたのは、
ちなつに似合いそうなオレンジのTシャツ。
黄色の星模様がロゴと共にプリントされていて、ちなつがひと目で気に入るに違いないものだった。


「プレゼントさせてください。
いつも、ごちそうを頂いたり、お世話になっているんだから。」


いいと言っても、木村くんは譲らずレジに向かった。


その後、お昼にしようと最上階のレストラン街へ。
エレベーターを降りると、街が一望できる大きなガラス窓があった。

澄んだ青い空が広がる。
遠くの山並みが青々としている。

とても幸せな今の気分が映し出されているよう。


窓枠に手を置いて眺めていると、並んで横に立つ木村くんの視線を感じた。
彼は窓の外の景色を見ていなかった。
私を見ていた。

恥ずかしさに思わず目を伏せた、その時、
隣りにカップルがやって来て、木村くんが一歩私に近寄った。
私も下がろうとしたが、壁際で半歩も動けず、行き止まった。
目の前に彼の胸板があって、ちょっともたれかかりたいような衝動に駆られ、自分が怖くなった。

こんなところを誰かに見られたら、どう言い訳すればいいの?
だけど、木村くんは肌が触れ合わないぎりぎりの場所で私を包むように立って、見つめてくれている。
胸が苦しい。
どうすればいいの?

こらえきれずに顔を上げ、戸惑いの表情のまま、彼の目をのぞき込むと、
瞬時に彼は私から身を離した。

早くも歩き始めながら、


「さて、行きましょう。何が食べたいですか?」


急によそよそしい口調で、そう言った。

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2002年に書いたサザンの曲を基にしたオリジナルの物語です。

全18話。


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