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ひまわりの約束

Promessa del Girasole  

ひまわりは、いつも太陽のほうをを向いて咲いている。朝日が昇れば東を。夕日が沈む頃には西を。

イタリア語で「ひまわりの約束」という意味の古いカフェが下町にある。オーナーの不動産会社社長が、後妻の陽子ために洋装店だった店を買取り、改装したのが始まりだった。それから40年経った今、オーナーもカフェの店主も代がわりしている。当時学生だった常連客ももう60歳前後になり、店も相当古びてきた。しかし、先代のコレクションである、イタリアのアンティークのテーブルは使い込まれて深い味わいを出し、椅子やソファーの座面は張り替えられて当時の趣を保っている。アンティークのカップで提供されるイタリアンローストのエスプレッソは今も健在で、最近では、カフェラテも若い女性に人気だ。

現在の店主は亜希子、58歳。先代の不動産会社社長の先妻の娘だ。彼女の夫、隆行は高校の社会の教師だが、間もなく定年を迎える。彼は学生の頃、この店の常連だった。女子大に通いながら店を手伝っていた亜希子を見初めて、卒業と同時に結婚した。二人に子供はいない。

今の不動産会社は、先代の後妻の連れ子の光太が経営している。母の陽子は、彼が5歳の時に亜希子の父と再婚したが、今はもう二人とも亡くなっている。彼女は静岡の出身で、漁師だった前夫は海の事故で命を落としたらしい。それから東京に出てきて、料亭に子連れで住み込みで働いていた。黒髪の美しい女性だった。妻を亡くしたばかりの先代の社長は、接待の席で彼女を見初め、惚れ込んで、妻にした。彼女の連れ子の光太も彼は気に入って、まだ5歳だったので、特別養子縁組で迎え入れた。

陽子が店主をしていた頃は、イタリアかぶれの社長の好みで、オペラやカンツォーネが店に流れていたものだった。今は娘の亜希子の夫、隆行の好みで、1980年代の洋楽がかかっている。学生の頃の隆行は肩まで髪を伸ばし、バンドを組んでいた。現在のプロミッサ・デル・ジラソーレの奧のステージには、アンプやスピーカー、ミキサーも完備されていて、ドラムやシンセサイザー、ギターやベースも揃っている。


光太と亜希子

光太は45歳、独身。亜希子とは13歳離れた、血の繋がらない弟だ。亜希子の家にやってきた幼い弟は、母親似の、色白で髪の黒い美少年だった。店が忙しかった陽子の代わりに、亜希子はよく弟の面倒を見た。亜希子が結婚するまでは、光太は姉のベッドによく潜り込んできたものだった。母親を義父に「盗られた」寂しさもあったのだろう。光太にとって、女子大生の亜希子は「キラキラかがやく、ぼくのマドンナ」だった。そして、初恋の女性でもあった。

彼は、数学と映像記憶に優れた若者に成長し、有名私立大学で経済学を学んだ。成績優秀だった彼には英国の大学院留学の声もかかったが、母の陽子を亡くした後は特に、「姉ちゃんのそばを離れたくない」と言って、日本に留まった。そして、義父に付いて不動産業を学び、それに加えて多くの資格を取得した。宅建士、土地調査士、家屋調査士、行政書士、二級建築士、インテリアコーディネーター…一度見た画像を正確に記憶できる彼には建築デザインのセンスもあり、義父と同じように、古い店舗を買い取って、美容院やブティック、レストランに改装するのが得意だった。彼が手がけた店には一昔前のヨーロッパ風の上品な雰囲気があり、どこも流行っている。

裕福で頭がよく、すらっとした美青年の光太が結婚していない理由は、もちろん、ゲイだからではない。それは、初恋の人が忘れられないからだった。ずっとそばにいる亜希子を忘れられるはずもなかった。彼は、カフェの経営には無頓着で自分の給料を趣味に使ってしまう隆行に代わり、亜希子を陰に日向に支えた。

古い建物は、どうしても雨漏りがする。プロミッサ・デル・ジラソーレは築50年の木造二階建てで、2階には寝室とシャワー付きの洗面室がある。休日のバンドの練習の後にそこに泊まることのあった隆行は、大雨の夜に寝室の天井に雨漏りの痕跡を見つけて、光太を呼びつけた。自分の宝物の楽器が濡れては困る、というのだ。先生口調で、建物の管理の不備を指摘する彼に、光太は反発するでもなく、すぐに業者に修理を依頼した。建物は亜希子の名義なので、屋根の葺き替えを含む修繕費のおよそ350万円は、彼女が支払うべきものではあるが、彼は、「お兄さんが言うように、管理責任は不動産屋の僕にある」と言って、譲らなかった。

亜希子はそんな弟に対する感謝の気持ちから、いつも弟の好物を作って、もてなした。カフェの看板メニューは、スパゲッティ・ボロネーゼとオムライスだが、漁師の息子の光太は魚が好きで、生きのいい魚の刺身はもちろんのこと、炭火で焼いた秋刀魚の塩焼きや、鰻の蒲焼を好んだ。そのため、亜希子のカフェには、そこに似つかわしくない七輪がある。そして彼のために、静岡で特別に栽培されたお茶も常備している。

サーモンの刺身とイクラとアボカドで作る、洋風寿司も彼の好物だ。義母の陽子直伝の鱧の湯引きの葛仕立ての椀物ももちろん好む。それらの料理を食べながら、「姉ちゃんは小料理屋の女将も似合うね」と光太は目を細めて言う。彼の切れ長の瞳も母親譲りだ。亜希子は、父に似て狸顔の自分の顔を鏡で見るたびに、弟の容姿を羨ましく思った。しかも、年齢とともに、目尻の皺や頬のシミも目立つようになった。それに比べて、弟の肌はいまだに象牙のようだ。今の自分の年齢よりも若くして亡くなった義母も最後まで美しかった。亜希子が高校生の時に亡くなった実の母も綺麗な人だったが、義母には敵わなかったように思う。

遺伝と老化についての愚痴を言うと、光太はいつも、「僕の記憶の中では、姉ちゃんはあの頃の女子大生のまんま。ずっとキラキラしてるよ。それは、姉ちゃんがシワシワのお婆さんになっても変わらないと思う。」と言うのだった。それを聞いた亜希子は喜んでいいのか、悲しんでいいのか、わからなくなる。若い光太に比べて、自分の時間だけが早く進んでいくように思えるのだった。ありがたいことに、同じ年の隆行は、同じように歳を取ってくれている。彼は、オムライスやハンバーグが好物で、勤め帰りに寄って、食べて帰ることが多い。


夫の異変

隆行は、定年まで1年を残していたが、どうしても学校を辞めたいと言い出した。学校勤めにしては自由を好む彼は、教頭試験も敢えて受けなかったが、自分よりかなり若い教頭に色々と指示されるのに耐えられなくなったようだった。

亜希子は、彼に生計を助けてもらっていたわけでもないので、「お好きになさってください」と言って、そのことは大して気にも留めなかった。35年以上公立高校の教師をしていた彼は、かなりの額の退職金をもらい、60歳になったら、暮らしていくのに困らないだけの共済年金を受け取れるはずだ。

二人が暮らしている古いマンションは彼の名義だった。亜希子としては、新しいマンションも次々と建っているので、心機一転、引っ越したい気持ちもあった。亜希子がそのことを言い出すと、「なんで?不便は一つもないし、俺はこのままでいいよ」とあっさりと拒否された。そのことを聞いた弟は、「兄さんは、ケチだからね。姉ちゃんが一人住むんだったら、お店に近い新しいワンルームマンションをすぐにでも用意するよ」と、怒って言った。

「もう若い時のような親密な夫婦の関係もないし、それも気楽でいいかな?」と思う亜希子だった。退職しても、洗濯も掃除もしない夫ではあったが、一人になれば、しないわけにもいかないだろう。「そういえば、熟年離婚が増えているって聞いたわ。みんなこんな感じなのかな?」と他人事のように思えた。

「妻に生活力がなかったり、子供に学費がかかったりすれば、愛が冷めても、夫と共に暮らすことを余儀なくされることもあるんじゃないかな?そもそも最初から私たちに愛なんてあったんだろうか?わがままな彼が、窮屈な学校勤めに耐えてきたのが奇跡に思える。幸い、生徒には人気があって、休日には何人かのお気に入りの生徒とコンサートに行ったり、カフェのステージで演奏を楽しんでた。あそこが無料の塾になって、大学の入試問題の予想が当たって、感謝されたことも一度ならずあった。いい先生ではあったんだろうな。」

そんなことを考えながら、亜希子は店とマンションを往復していた。3月の末に退職した隆行は、以前にも増して音楽に没頭し、髪も伸ばし始め、外泊することが多くなった。亜希子は、店の準備の前に、2階の片付けと掃除をしていたが、ある時から、部屋がきれいに片付けられ、くずかごにゴミさえないのに疑念を持つようになった。隆行は洗濯物だけは持って帰っていたが、そんな状況では、「女ができた?」と誰もが思うだろう。

しかし、それは「女」ではなかった。

ある日、閉店後に店に来た光太が、隆行のいないのを確認してから、「姉ちゃん、気持ちをしっかり持って聞いてくれる?兄さんのことなんだけど」と深刻そうな顔をして言った。

「予想はつくけどね、何?」

「実はね、今朝、兄さんが以前の教え子の若い男の子と手を繋いで歩いているのを見かけたんだ。この店でも見たことがある、ドラムを叩いてた子だよ。それで、悪いと思ったんだけど、後を付けたんだ。そうしたらね、二人は新しいマンションに入って行ったんだ。さすがに僕の会社の管轄じゃないけどね。それで、その部屋の名義人を調べてみた。そしたら、兄さんとその子の共同名義になってた…姉ちゃん、どうする?」

「あの子か…あの綺麗な男の子…リズム感も抜群で、プロ並の声の持ち主。確か、家庭の事情で大学には行かずに、美容師になったって言ってたわ。隆行の髪の毛がいつも綺麗に染めてあるのも、なるほどね。服のセンスも変わってきた。学校の先生だった人が、ロックミュージシャンに見えるようになったものね…いや、感心している場合じゃないわよ!光ちゃん、どうしたらいいと思う?」

「姉ちゃんは、兄さんと別れたい?」

「すぐには決められない。でも、そうなると思う。相手が女なら、なんとかなるかもしれないけど、男じゃあ、太刀打ちできないわよ。」

「そうだよね。それなら、会社の弁護士に相談してみる?彼は離婚訴訟も強いよ。」

「うん。今度のお店の休みに光ちゃんの会社でいいかな?」

「わかった。後のことは彼と僕に任せて、あんまり思い詰めないでね。」

「うん、ありがとう。頼りにしてる。」

光太に送られてマンションに帰った亜希子は、ラベンダーの入浴剤をたっぷり入れたお風呂にしばらく浸かった。上がると、隆行が大事にしていたブランデーの瓶の封を開け、紅茶にたっぷり入れて飲んだ。こんな時はレモンの蜂蜜漬けも加えるといい。今夜も隆行は帰らないだろう。なぜか、嫉妬という感情はない。かえって、どこかほっとしている自分がいた。

光太は、しばらく亜希子のマンションの部屋の下にいた。本当は、一晩中彼女を抱きしめていたかった。気丈な姉の代わりに彼は泣いていた。これまでは、姉が幸せなら光太も幸せだった。とはいえ、大好きな姉が結婚したことは彼の人生の最大の不幸、母が亡くなったことは2番目の不幸、そして、姉の結婚生活が破局を迎えたことは3番目の不幸だった。しかし、それは彼の40年来の片思いの終わりを告げる吉報でもあった。


協議離婚

弁護士を介しての何度かの話し合いの後、隆行と亜希子は離婚届を区役所に提出した。四半世紀を共にした二人だったが、不思議と後悔や未練のようなものはなかった。弁護士の粘り強い説得で、古いマンションの名義は亜希子のものになり、隆行は終生、彼の年金の半額を亜希子に分与することになった。病気などのために働けなくなった場合、国民年金だけでは亜希子は生活に困窮することが予想される、という理由が決定打になった。隆行には、今や売れっ子の美容師・裕美(ひろみ)がいて、隆行の老後の面倒は見ると言っている。彼は隆行の下の世話も厭わないだろう。

離婚のための調査で明らかになったことがあった。それは隆行が、シングルマザーの家庭で育った裕美を経済的に援助していたことだ。美容師専門学校の学費はおよそ300万円かかる。隆行は2年間、給料やボーナスからそれを捻出していた。そして、母親の内縁の夫からDVを受けていた裕美のために、退職金からマンションの頭金を出したというのだ。彼らが口を揃えて言うのには、裕美が高校を卒業するまでは、彼らは「先生と生徒の関係」だったそうだ。もし、そうでなければ、隆行は退職金を返納しなければならない。

それを知った亜希子は、「彼はただのケチではなかったんだ」と思い、少し安心した。男同士で愛し合うことは、彼女にとってはとても理解し難いことではあるが、隆行が寂しい老後を送らなくてすむのはよかった。離婚の話し合いを有利に進めるために表に出ることはなかったが、亜希子には光太がいた。弁護士は亜希子にこう告げた。

「光太さんは、あなたの亡くなったお父様と特別養子縁組をしておられますから、戸籍上はあなたの弟さんです。しかし、お二人には血の繋がりがないので、光太さんとあなたは、半年経てば結婚できるんですよ。」

その弁護士は光太の親友でもあったので、彼の気持ちを代弁していることは、亜希子にはわかった。しかし、13歳も年下の「弟」と結婚するという考えは、すぐに受け入れられるものではなかった。

半年が経った頃、亜希子がカフェに出勤すると、出窓にひまわりの花が飾ってあった。最初の花瓶には1本のひまわり、二つ目の花瓶には7本、三つ目の花瓶には11本、四つ目の長細いコンテナには99本のひまわりが入っていた。合鍵を持っているのは、今は光太だけなので、それは明らかに彼からのメッセージだった。亜希子は、その花言葉を調べた。

1本のひまわりは「一目惚れ」、7本のひまわりは「心に秘めた愛」、11本のひまわりは「最愛」、最後の99本は「ずっと一緒にいてください」という光太の40年の思いを伝えていた。一瞬、呼吸することを忘れてしまった亜希子は、大きなため息をついて、呟いた。「光ちゃん、長い間待たせてしまってごめんね」…嬉しいというより、申し訳なくて悲しかった。彼は、若さの盛りを「姉」のために犠牲にしてきたのだ。滅多に泣かない彼女だったが、流れる涙を止めることができず、その日は臨時休業するしかなさそうだった。


40年目のプロポーズ

亜希子が自分の気持ちを拒否していないのを確かめた光太は、店の休みの日に亜希子を会社に呼び出した。応接室のテーブルの上のバスケットには108本の小型のひまわりが入っていた(108本の花は『私と結婚してください』というメッセージを伝えている)。彼は、膝をつき、恥ずかしそうにエメラルドの指輪を亜希子に差し出した。

それを予期していた亜希子は、それでも、「光ちゃんの気持ちはとっても嬉しいのよ。女性としてこんな幸せはないと思えるくらいにね。でも、一つだけ確かめておきたいことがあるの。私はもう、あなたのために子どもを産んであげられない。あなたはまだ若いんだから、私より若い人と一緒になれば、自分の子どもだって持つこともできるのよ。」と真顔で言った。

半泣きになった光太は、「40年待ったんだ。子どもが欲しけりゃ、とっくにどこかで作ってるさ。でも、ガキの頃から、嫁さんにするのは姉ちゃんだけだって決めてたんだ。姉ちゃんがあいつと結婚するって聞いた時は、決闘を申し込もうと本気で思った。でも、10歳のガキと大学生じゃあ、僕に勝ち目はなかった。」と訴えた。亜希子にはもうこれ以上光太を傷つけることはできなかった。

隣の事務室で聞き耳を立てていたスタッフは、社長の40年目のプロポーズが成功したのを大喜びした。光太の親友の弁護士も加わって、サンドイッチとシャンパンで二人の婚約を祝った。

しかし、顔見知りの多い下町の人たちは、歳の差はともあれ、「姉」と「弟」の結婚をどう思うだろう?中には後ろ指を刺す人もいるかもしれない。光太はそんなことも考慮して、西日本の田舎町の海沿いの土地を買っていた。海釣りの好きな彼は、穏やかなそこの海をとても気に入っていた。

ひそかに婚姻届を出して、人目につかないようにお互いのマンションを行き来していた二人だったが、ある日、光太は亜希子に言った。

「姉ちゃん、僕たちは夫婦なんだから、もうこんな愛人ごっこはたくさんだ。ここは引き払って、西の方に行かないか?ここの土地や建物を売って税金を払っても、十分家は建てられる。土地が広いから、半分を自分たちの住居にして、半分を貸別荘にしたらどうだろう?残ったお金で、金(gold)でも買えば、僕たちの老後は安泰さ。それに、あの内海の魚は、肉質が細やかで、なんともいえない甘味があるんだ。船を買って、釣りに出て、うまい魚と姉ちゃんの料理が毎日食べられるなんて、ああ、もう待ちきれないよ。」

「そうね、私も隆行とあの子が住んでいるこの町には、もういたくない気もする。光ちゃんと二人、田舎でのんびり暮らして歳取ってくのもいいかも。そのうち光ちゃんが白髪になれば、私たちの歳の差も気にならなくなるかもしれないわね。」

「姉ちゃんは、いつになってもあの頃の女子大生のままだよ。でも、そんなに僕を爺さんにしたいんなら、ブリーチして、白に染めようか?」と、自分の頭を撫でる光太を亜希子はぎゅっと抱きしめた。そして心の中で呟いた。

「ああ、私はこの人のこのまっすぐな黒髪がずっと好きだったんだ。あの頃、彼がもう少し大きかったなら、そして、『弟』でなかったなら、私が、ひまわりのように彼を追い求めていたはず。ただ、彼だけを。」

                        (続く)





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