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感銘を受けた広告コピー集③

今日一つルーティンを変えた

何かを行おうとするとき、習慣を一つ増やすことをしている。
自分の生活に一つのルーティンを入れることで自分の生活リズムを変えていくことから始めると、やがて大きな変化に繋がるから。
やることは単純。
今までだったら、HITTを生活の一部に組み込み、
noteを1日1回上げるようにし、
お風呂場で歯磨きを10分間磨くなど。
今回はドライヤーを使うと良いとHOME hairの代表戸松さんに教えてもらったので、さっそく組み込んだ。

些細なことでも自分の為になることは積極的に取り組もうとは思っている。

小さい積み重ねが大事を成すということを理解しているからだ。

普段を変える。それが一番人生を変える。

本田技研工業(新聞広告2010年)

HONDAは本当にいい言葉を発信する。挑戦者に火をつける、企業自体がそんな挑戦者をイメージさせる会社だからだ。

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第2期F1活動中の1980年代後半には、1986年と1987年にはコンストラクターズ・タイトル、1987年にはネルソン・ピケのドライバーズ・タイトルを獲得した上に、1988年にホンダエンジンを搭載したマクラーレンが16戦中15勝し[5][6]、アイルトン・セナがドライバーズ・タイトルを獲得した。さらに1989年にはマクラーレンのアラン・プロストが、1990年にはセナが再びチャンピオンに輝くなど、その当時ホンダのエンジンが最も高性能であり、コンストラクターは6年連続、ドライバーは5年連続でホンダエンジン搭載車が獲得したことから、「ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない」とまで言われた。またホンダの活躍と中嶋の参戦、フジテレビジョンによる全戦中継が後押しした1980年代後半から1990年代前半にかけての日本国内のF1ブームでは、当時人気を博したセナと蜜月関係を結び、「F1のホンダ」として大いに知名度を高めた。 

1991年には、中嶋が所属するティレルチームに対し、前年マクラーレンが使用したV型10気筒エンジンをベースとしたRA101Eを供給した。しかし、これは前年のコスワースDFRに比べて、重く大きくなったことからマシンバランスを崩すことになり、エンジンパワーの増加による駆動系の信頼性の問題と相まって、ステファノ・モデナのモナコGPでの予選2位、カナダGPでの決勝2位という散発的な好リザルトは得るも、シーズン通しての好成績には結びつかなかった。

同1991年にマクラーレン・MP4/6には、V型12気筒エンジンRA121Eが搭載された。そしてブラジルGPにおいてアイルトン・セナがドライブするマシンは深刻なギアボックス・トラブルを抱えていた。4速を失ったのを始め、続いて3速・5速を失った。レース終盤にはついに6速のみで走行せざるを得なかった[7]が、セナは母国初優勝を果たした。このことは彼の秀逸なドライビングテクニックのみならず、ホンダエンジンの高い適応性を示した。

Wikipedia 参照

マクラーレン時代のHONDAは名実ともに世界最高だった。

生まれてまもない自分の記憶にも高速で走るあの姿を今でも覚えている。

いまなお海外では 「HONDA」と声をかけられる。サッカーの本田圭佑選手もHONDA と比較されていたことが記憶に新しい。

ここまでの歴史があっての活躍だが、日々挑戦し続けた結果であることを理解しなければならない。

物事に終わりはなく、完璧なんてないことは当たり前。だからこそ、本田宗一郎、藤沢武夫が築き上げたDNAは受け継がれ、会社の姿勢になり、生まれたキャッチコピーに感化された自分がいる。

カリスマ性があることは残された者に大きなプレッシャーを課すことがある。

その歴史を普段のHONDAとするなら、まだまだ進化するという姿勢なんだと自分は感じた。

挑戦がキーワードのHONDA、その言葉が支えとなり自分はまだまだ進化できるんだと勇気づけられた。

今を変えていく、それが成す未来への道なんだと言い聞かせるしかないと思う。






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