我輩は自己チューである

最近、高校生のとき初めて付き合った女性が今年結婚する予定であるという話を聞いた。なんだか、あれから随分と時間は過ぎていたようだ。僕たちはそろそろ人の親になる年齢だ。

その人と6年ぶり?に連絡をとったのだけれど、最後に1つだけ、と言って私に言われたことがある。

彼女は最近あいみょんの「わかってない」という曲を聴いて昔のことを思い出したらしい。その曲を聴いてみると、歌詞の内容としては、あなたの頭の中で、あるいは、あなたが見ている私は、あなたの理想によって作り上げられた私でしかない。だから、あなたは私のことをわかってない、といった内容であった。
彼女は最後に、自分のフィルターを通して見たものがすべてだと思い過ぎないようにね。と私に忠告した。

自分の自己中心性については、これまで何度となく問いかけられてきたと思う。お前は自己中だ、人の気持ちが分からないとかなんだとか。これからも考えなければいけないテーマなのかもしれない。

それで、思うのは、僕たちは誰かを自己中心的だと言い切ることなんてできない、みんながみんな自己中心的な側面を持って好き勝手に生きているということだ。誰かを自己中心的だと非難することは、裏を返せば、その誰かに利他的であるように強いることである。その行為こそまさに自己中心的なものになる。そんな時、私を自己中心的であると非難する人を私は許すのだけれど、相手を許すことによって時間や感情、その他様々な自分の人生の一部を相手に無条件で明け渡すことになる。そんな風に思う。真の愛とは何か。誰かを愛することに見返りなんて求めるなと言う人もある。そう言われて、僕はその言葉とその相手を信じて、受け止めるわけだけれど、それは本当に命懸けの行為である。その人を愛するからこそなせるわざである。 誰のための人生か?という問いが絶えず自分の心の底から浮かんでくる。

では、そんな自己中心的な私と自己中心的な他者が世界には、居て、みんな好き勝手に生きている。どうしたらいいのか。お互いに自己中心的であることを認め合い、話し合って受容し合い、そして、許し合いたいと思う。

許し合うためには、まず自らが先に相手を許さねば始まらないから許すのだけれど、果てしない許しの先に何があるかはわからない。誰も教えてくれない。それでも今は許し続けている。

僕は本当に自己チューなのだろうか。こんなことをごちゃごちゃ書いていることがまさに自己中心的なのだろうか。「わかってない」のだろうか。

かえで(彼女)の旦那さんになるであろう人はどんな人なのだろうか。自らが抱いた理想ではなくありのままの彼女を受け止めることができた人なのだろうか。真の愛を朧げながらも見たのだろうか。


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